里見義康(読み)さとみよしやす

改訂新版 世界大百科事典 「里見義康」の意味・わかりやすい解説

里見義康 (さとみよしやす)
生没年:1573-1603(天正1-慶長8)

安土桃山時代武将安房館山城主。義頼の子。1590年(天正18)豊臣秀吉小田原征伐に際し,安房9万石を安堵された。91年従四位下侍従となり,羽柴の氏を授かる。92年(文禄1)肥前名護屋に出陣。1600年(慶長5)関ヶ原の戦には東軍に属し,常陸鹿島3万石の加増をうけた。義康も父祖と同じく文書印文〈義康〉の方形印章と竜印章を使用。
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朝日日本歴史人物事典 「里見義康」の解説

里見義康

没年:慶長8.11.16(1603.12.18)
生年:天正1(1573)
安土桃山・江戸時代初期の武将。義頼の長子通称太郎,左馬頭を称し,のち四位侍従に任ぜられた。父義頼存命中の天正14(1586)年末ごろから家督を継承し,中世から近世への移行期という激動の時にあって大名里見氏の権勢維持に腐心する。同18年の小田原攻めののち豊臣秀吉により上総国を没収され,徳川家康の与力大名に位置付けられた。以後朝鮮出兵や寺社造営など,豊臣政権の一員として諸事業に参加。一方,自身も館山城を修築して本城とし,城下町の建設にも取り組んだほか,太閤検地に基づいて家臣に全面的知行割りを実施するなど,近世大名への脱皮に向けて努力を重ねた。関ケ原の戦では徳川方にくみし,戦後その恩賞として常陸鹿島領3万石を加増された。

(滝川恒昭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「里見義康」の解説

里見義康 さとみ-よしやす

1573-1603 織豊-江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)元年生まれ。里見義頼の長男。天正15年家督をつぐ。18年豊臣秀吉の小田原攻めにおくれて上総(かずさ)を没収され,領地は安房(あわ)(千葉県)一国となる。関ケ原の戦いでは東軍につき,慶長5年安房館山(たてやま)藩主里見家初代。12万石。慶長8年11月16日死去。31歳。通称は安房侍従。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の里見義康の言及

【安房国】より

…旧国名。現在の千葉県南部。
【古代】
 東海道に属する中国(《延喜式》)。718年(養老2),北の上総国の平群(へぐり),安房,朝夷(あさひな),長狭(ながさ)4郡を分割して,安房国を建てた。その後,741年(天平13)にもとの上総国に併合されたが,757年(天平宝字1)ふたたび分立して安房国となった。かつて《国造本紀》に成務朝に定まったと伝える阿波国造と,《古事記》神武天皇段にみえる長狭国造の地域であった。…

【上総国】より

…1564年(永禄7)里見義弘は再度国府台で北条氏康と戦ったが敗れ,以後上総の北半は北条氏の傘下に入り,上総南部と安房は里見氏が勢力を保った。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原進攻に当たり,里見義康(義弘の弟義頼の子)は相州三浦に出撃して小田原到着が遅れ,秀吉の怒りを買い,安房・上総の分国のうち,上総を没収され,他の関東諸領とともに徳川家康に与えられた。【小笠原 長和】
【近世】
 家康の関東入国直後に当国に配置された万石以上の諸将は,本多忠勝(大多喜,10万石),大須賀忠政(久留里,3万石),石川康通(鳴戸,2万石),内藤家長(佐貫,2万石),岡部長盛(両総の内1万2000石),万石以下では大久保忠佐(茂原,5000石),松平家忠(五井,5000石),本多重次(小磯,3000石),植村泰忠(勝浦,3000石)の諸家であった。…

【里見氏】より

…しかし64年(永禄7)再度の国府台戦で義弘は氏康・氏政父子の北条軍に敗れ,南房総に後退を余儀なくされる。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻囲に際し,里見義康(義弘の弟義頼の嫡子)は参陣が遅れて上総を没収され安房1国のみを保有。文禄の役には家康に従って名護屋に出陣し,関ヶ原の戦(1600)では秀忠に従い宇都宮に出陣し鹿島郡に3万石を加増された。…

※「里見義康」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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