改訂新版 世界大百科事典 「里見義康」の意味・わかりやすい解説
里見義康 (さとみよしやす)
生没年:1573-1603(天正1-慶長8)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(滝川恒昭)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…旧国名。現在の千葉県南部。
【古代】
東海道に属する中国(《延喜式》)。718年(養老2),北の上総国の平群(へぐり),安房,朝夷(あさひな),長狭(ながさ)4郡を分割して,安房国を建てた。その後,741年(天平13)にもとの上総国に併合されたが,757年(天平宝字1)ふたたび分立して安房国となった。かつて《国造本紀》に成務朝に定まったと伝える阿波国造と,《古事記》神武天皇段にみえる長狭国造の地域であった。…
…1564年(永禄7)里見義弘は再度国府台で北条氏康と戦ったが敗れ,以後上総の北半は北条氏の傘下に入り,上総南部と安房は里見氏が勢力を保った。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原進攻に当たり,里見義康(義弘の弟義頼の子)は相州三浦に出撃して小田原到着が遅れ,秀吉の怒りを買い,安房・上総の分国のうち,上総を没収され,他の関東諸領とともに徳川家康に与えられた。【小笠原 長和】
【近世】
家康の関東入国直後に当国に配置された万石以上の諸将は,本多忠勝(大多喜,10万石),大須賀忠政(久留里,3万石),石川康通(鳴戸,2万石),内藤家長(佐貫,2万石),岡部長盛(両総の内1万2000石),万石以下では大久保忠佐(茂原,5000石),松平家忠(五井,5000石),本多重次(小磯,3000石),植村泰忠(勝浦,3000石)の諸家であった。…
…しかし64年(永禄7)再度の国府台戦で義弘は氏康・氏政父子の北条軍に敗れ,南房総に後退を余儀なくされる。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻囲に際し,里見義康(義弘の弟義頼の嫡子)は参陣が遅れて上総を没収され安房1国のみを保有。文禄の役には家康に従って名護屋に出陣し,関ヶ原の戦(1600)では秀忠に従い宇都宮に出陣し鹿島郡に3万石を加増された。…
※「里見義康」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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