重門治原分(読み)じゆうもんじはらぶん

日本歴史地名大系 「重門治原分」の解説

重門治原分
じゆうもんじはらぶん

[現在地名]会津坂下町片門かたかど

西は束松たばねまつ峠に連なる山地に接し、東は片門村、北は本名ほんな村、南はふじ(現柳津町)。片門村地内でうえはらと称し、越後より侵入した城重則が正暦二年(九九一)敗れて悲壮な最期を遂げた所で、重則が腹を十文字に切ったので十文字原と名付け、寛政五年(一七九三)重門治原と改めたという(会津鑑)。「新編会津風土記」には原野として重門治原が記され、「寛政五年府下北小路町検断赤城惣右衛門と云者村の未申の方十七町、重門治原の中を新墾し、赤城新田と名く、家数二軒」と記される。赤城あかぎ新田は赤城家文書によれば、宝暦六年(一七五六)会津藩士赤城氏が重門治原の開発を願い、明和五年(一七六八)原野三九町余を与えられ、堤を築き堰を通したが、安永二年(一七七三)一時中断。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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