金丸荘(読み)かなまるのしょう

百科事典マイペディア 「金丸荘」の意味・わかりやすい解説

金丸荘【かなまるのしょう】

阿波国三好郡にあった荘園。徳島県三好郡三加茂(みかも)町(現・東みよし町)の西部を除く地域に比定される。1192年後白河法皇の寵妃高階栄子(たかしなのえいし)(丹後局)とその子孫の所領として認められた20ヵ所のうちに,蓮華王院(れんげおういん)領の金丸荘がみえる。だが丹後局とその子孫領としてはその後確認されず,1231年時には醍醐(だいご)寺遍智院領となっており,以後遍智院門跡領として伝えられた。南北朝期には遍智院聖尊と三宝院賢俊との間で当荘などをめぐる争論が生じ,1345年に聖尊一期(いちご)ののち賢俊が管領することで和与(わよ)が成立している。この頃には当荘は西・中・東に分かれており,聖尊・賢俊以後別々に譲られたとも考えられる。また南北朝期には当荘一帯は南朝方の拠点となり,菅生氏など南朝方についた祖谷山(いややま)の山岳武士に兵粮所として公文職・下司職などが与えられた。だが1380年には阿波守護細川氏一族により金丸公文職が西山氏に与えられており,この頃には北朝方の支配下に入っていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「金丸荘」の意味・わかりやすい解説

金丸荘 (かなまるのしょう)

阿波国みよし郡(現,徳島県東みよし町南東部)の荘園。醍醐寺遍智院領。平安末期の白河天皇の時代に遍智院が創建されて以来の荘園であると考えられるが,正確な立券の時期は不明。1231年(寛喜3)の成賢僧正譲状,1336年(延元1・建武3)の光厳上皇安堵状などにより,鎌倉期を通じて遍智院領として伝領されていたことがあきらかになる。この荘園は内部が東・西・中の3荘にわかれる広域荘園であり,南北朝動乱期に入って,1350年代から70年代初期にかけては剣山周辺の山岳を舞台に活動する南朝方の勢力圏に入り,公文職・下司職など荘官職は菅生氏など南朝方山岳武士に宛行われている。しかし,それは一時期のことであり,1380年(天授6・康暦2)には公文職を阿波守護細川氏が宛行っているように,この荘園は北朝方の支配するところとなる。それ以後,少なくとも1460年(長禄4)までは遍智院領荘園として続いていたことが確認できる。
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