七条通の南、
〈京都・山城寺院神社大事典〉
長寛二年(一一六四)後白河法皇の勅願により、院御所の
とあり、この堂が法住寺千体観音堂ともよばれ、供養は三〇〇の僧を率いる奈良興福寺の尋範が導師となった。だが盛大な落慶供養も法皇と確執のあった二条天皇の行幸がなく、「愚管抄」は「長寛二年十二月十七日ニ供養アリケルニ、行幸アラバヤト思召タリケレド、二条院ハ少シモ思召ヨラヌサマニテ有ケルニ、寺ヅカサノ勧賞申サレケルヨモ沙汰モナカリケリ」と、天皇の意に反する造営であったことをにおわせる。そのことを伝えた尋範に対し、法皇は「御目ニ涙ヲ養蓮花王院
准御斎会有行幸」とあり、天皇の行幸があったとも思われる。創建時の本堂は建長元年(一二四九)焼失、現堂宇は文永三年(一二六六)の再建であるが、規模・様式とも両者に大きな隔りはないと推定されている。なお当時の様相については「法然上人絵伝」がその面影を伝える。
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京都市東山区にある天台宗の寺。妙法院所管。後白河法皇が1164年(長寛2)鳥羽上皇の得長寿院にならって法住寺殿内に創建を発願し,平清盛に命じて堂舎,丈六の本尊,等身の千体観音像を造営させた。本堂は三十三間堂の名で知られる。湛慶(たんけい)作の本尊千手観音,二十八部衆,風神・雷神などの国宝と,重文の千体千手観音像を所蔵。本堂の通し矢で知られる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
「三十三間堂」のページをご覧ください。
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