日本歴史地名大系 「金山新村」の解説 金山新村かなやましんむら 富山県:富山市旧婦負郡・射水郡地区金山新村[現在地名]富山市金山新・金山新南(かなやましんみなみ)・金山新西(かなやましんにし)・金山新北(かなやましんきた)・金山新中(かなやましんなか)・金山新東(かなやましんひがし)・金山新桜(かなやましんさくら)ヶ丘(おか)・新千原崎(しんちはらざき)神通川の下流左岸に位置し、集落北側を北陸街道が通り、千原崎(ちわらざき)渡がある。北隣の新川(にいかわ)郡草島(くさじま)村の出村で、江戸時代中期に開かれた。天保一三年(一八四二)までは天正寺開(てんしようじびらき)村と称した。村名は、新開指導者の在村名および姓に由来するといわれる。新川郡に属し、加賀藩領。所属組は新川郡草島村と同じ。もとは草島村・千原崎村領で両村とともに神通川右岸に位置したが、万治元年(一六五八)、寛文八年(一六六八)の大氾濫によって同川の本流が東遷し、当地は本流左岸になるとともに荒廃地となった。享保八年(一七二三)滑川(なめりかわ)町綿屋九郎右衛門らが旧神通川(神通古川)河川跡の新田開発を申請、当地の新開が具体化した(「御郡役所留要文抜書」前田家文書)。このとき加賀・富山両藩の間で境界論争が起こったが、一応の決着をみた同一五年、加賀藩新川郡無組御扶持人十村役天正寺村十右衛門(金山氏)と広田組十村役黒崎(くろさき)村安兵衛(宝田氏)が中心となり、草島村を初め周辺村の百姓を集め古田跡天正寺(こでんあとてんしようじ)開と称して、延享三年(一七四六)までに約八〇〇石の新開に成功した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by