精選版 日本国語大辞典 「出村」の意味・読み・例文・類語 で‐むら【出村】 〘 名詞 〙 本村から分かれた飛び地などにある村。分村。[初出の実例]「五六人並ぶ出村の月み哉〈利合〉」(出典:俳諧・末若葉(1697)下) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「出村」の解説 出村いでむら 富山県:魚津市出村[現在地名]魚津市出(いで)角(かど)川左岸にあり、対岸は宮津(みやづ)村・湯上(ゆのえ)村、北は川津(かわづ)村。元亀三年(一五七二)には「賀積保内井手之内」などが庄田惣左衛門に宛行われているが(閏正月二二日「河田長親宛行状」別本歴代古案)、井手(いで)は当地をさすとみられる。慶長一五年(一六一〇)七月、前田利長は「金山谷与井手村」の四三三石余(免四ツ)を神尾之直の知行と認めている(「知行所目録」神尾家文書)。正保郷帳では高四七四石余、田方三一町二反余・畑方三反余、新田高二四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四六一石・免五ツ一歩、小物成は野役三四匁・鮎川役四匁、鮭役四匁(退転)である(三箇国高物成帳)。 出村でむら 兵庫県:相生市出村[現在地名]相生市若狭野町出(わかさのちようで)八洞(はつとう)村の西、矢野(やの)川と支流の小河(おうご)川の合流点南部の氾濫原に立地する。南部を山陽道が通る。近世以前は寺田(てらだ)村の枝村であったと伝えられている。古代―中世の条里遺構が残る。江戸時代の領主の変遷は入野(いりの)村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方二四七石余・畠方一二石余。 出村いでむら 和歌山県:有田郡吉備町出村[現在地名]吉備町出垣倉(かいぐら)村の西方に位置し、村域は有田川の南北両岸にまたがる。北岸域を鳥居戸(とりいど)といい、「続風土記」は「鳥居戸より川を渡りて出て村居せしより其名起れるなり」といい、「鳥居戸は丹生明神鳥居跡の義なり」と記す。慶長検地高目録には「井出村」とみえ、村高三八九石余。田殿組に属し、「続風土記」は家数三五、人数一五八、社寺として丹生(にう)大明神社、廃最勝(さいしよう)寺・観音堂を記す。 出村いでむら 奈良県:大和高田市出村[現在地名]大和高田市大字出葛城川右岸、西坊城(にしぼうじよう)村の北に所在。奥田(おくだ)村の枝村(出垣内)であったが、寛永一六年(一六三九)から寛文四年(一六六四)の間に分離独立。「寛文朱印留」には本多政長領とあるので、寛永一六年以降郡山藩領で、この頃の記録に「奥田村、同出村」と並記するので村高を分けていたことがわかる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ) 「出村」の意味・わかりやすい解説 出村でむら 新しく開発された土地に本村から分出した村をいう。中世に本村である在家(ざいけ)から出た今(いま)在家あるいは新在家や、近世に開発された新田に、親村から分村した子村も出村である。親村の土地から離れ、多くは不利な自然条件の所に形成されるが、地縁的、血縁的に親村と結び付いている。[中田榮一] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例