デジタル大辞泉
「北陸街道」の意味・読み・例文・類語
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ほくりく‐かいどう‥カイダウ【北陸街道】
- 中山道から分かれ、近江・越前・加賀・越中の諸国を経由して越後国に至る街道。中世以前は琵琶湖西岸を、近世は東岸を通った。中山道の関ケ原または鳥居本から木之本・栃ノ木峠・武生・福井・小松・金沢・倶利伽羅峠・高岡・富山・直江津・柏崎を経て新潟まで。ほっこくかいどう。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
北陸街道
ほくりくかいどう
越前からほぼ日本海沿岸に沿って北東に進み、倶利伽羅峠越で東方越中国に入る道。古代・中世は北陸道と称され、近世の北陸街道は北陸道に近いルートを踏襲している。
〔古代〕
北陸道は官道としての規定は小路で、加賀国の駅は弘仁一四年(八二三)の立国時に江沼郡二駅・能美郡二駅・石川郡一駅・加賀郡三駅の八駅であった(「日本紀略」同年六月四日条)。「延喜式」兵部省によれば、江沼郡が朝倉・潮津(現加賀市)、能美郡が安宅(現小松市)・比楽(現美川町)、加賀郡が田上(現金沢市)・深見(現津幡町)・横山(現宇ノ気町)の各駅で、一〇世紀初めまでに石川郡の一駅は廃絶したようである。駅馬が各駅に五疋、伝馬が江沼・加賀両郡に各五疋置かれていた。朝倉から比楽までは海岸線を北東に進み、次いで内陸の田上から深見に至り、深見より東に進んで礪波丘陵を越えて越中国へ連絡する。一方、深見から分岐して横山を経て能登国へ向かう支路があった。能登国に入ると撰才駅、越蘇駅(現七尾市)を経て国府(現同上)に至る。両駅には駅馬として五疋があった。なお越蘇および奥能登の穴水(現穴水町)、三井・大市・待野(現輪島市)、珠洲(現珠洲市)の六駅が大同三年(八〇八)一〇月一九日に廃されたが(日本後紀)、越蘇はほどなく復活している。
〔中世〕
寿永二年(一一八三)五月越前燧城(現福井県今庄町)が陥落して、敗走する北国武士を平維盛の率いる平氏軍一〇万が追撃した。北国武士は篠原(現加賀市)を支えきれず、「佐見・白江・成合ノ池」を過ぎて「安宅ノ渡・住吉浜」に退却し、平氏軍は先陣が安宅に達したとき後陣は南の「黒崎・橋立・追塩・塩越・熊坂山」から越前国牛山ヵ原(現福井県芦原町)まで続いていた。北国武士は安宅を破られ、根上ノ松(現根上町)でも敗れ、「今湊・藤塚・小河・浜倉部・双河」を北上して大野庄(現金沢市)に陣を取り、平氏軍は「林・富樫カ館」を攻略した(「源平盛衰記」巻二八)。北国武士は越中に逃れて越後国府(現新潟県上越市)から南下する木曾義仲軍に合流し、平氏軍は義仲軍を迎撃するために二手に分れて国境に向かった。平通盛ら搦手三万余騎は越中・能登境の志雄山(現志雄町)に向けて進発し、その軍勢は「能登路白生ヲ打過テ、日角見・室生・青崎・大野・徳蔵・宮腰マテ」続いたといい、維盛の率いる大手七万余騎は加賀・越中境の倶利伽羅山(礪波山)に向かい、軍勢は「井家・津播多・荒井・閑野・竹橋・大庭・崎田・森本マテ」連なったという(同書巻二九)。
北陸街道
ほくりくかいどう
中山道から分れて近江から北上、栃ノ木峠(現南条郡今庄町と滋賀県伊香郡余呉町の間)を越えて今庄(現今庄町)に至り、日野川沿いに府中(現武生市)から福井を経て坂井平野を北上、細呂木(現坂井郡金津町)から加賀へ抜ける街道で、越前国のほぼ中央を南北に走る。この行程が定まるのは近世以降で、古代・中世には、近江から敦賀に入り、今庄に向かっていた。近世には脇街道として北国路とよばれた。
なお、律令制下の行政区分としての北陸道は、愛発関(跡地は現敦賀市)以北の、現在の福井県から新潟県に至る日本海に面する地域の七ヵ国をさす。古くは広く東北地方をも含めて越(高志)とよんだが、「古事記」や「万葉集」では越・越路として、北陸道のことがみえる。「古事記」崇神天皇の段に「大毘古命をば高志道に遣はし」とあり、いわゆる四道将軍の派遣の記事であるが、このことは「日本書紀」同天皇一〇年九月条に「大彦命を以て北陸に遣す」と記される。同書崇峻天皇二年七月条には「阿倍臣を北陸道の使に遣して」ともある。「万葉集」巻一五に載る、越前に配流された中臣宅守の歌には
<資料は省略されています>
とある。「越路」とは越へ行く道、越を通る道の意であるが、ほとんど越の国と同義に用いられて、都の北方、遠い雪深い所として和歌や文芸に多用された。
〔古代・中世〕
官道としての北陸道は「小路」と規定され(「令義解」厩牧令)、越前国内の駅路は「延喜式」(兵部省)に駅馬として「松原八疋、鹿蒜・淑羅・丹生・朝津・阿味・足羽・三尾各五疋」、伝馬として「敦賀・丹生・足羽・坂井郡各五疋」と記される。松原駅は現敦賀市、鹿蒜駅は現今庄町南今庄、淑羅駅は現南条郡南条町鯖波とされ、また丹生駅は現武生市、朝津駅は現福井市浅水町、足羽駅は現福井市足羽山東北麓付近に比定されるが、阿味駅・三尾駅は足羽駅より北方には求められても、位置は比定しがたい。阿味駅は現福井市舟橋、現坂井郡春江町松木、現武生市味真野に、三尾駅は現坂井郡金津町中川、同芦原町二面にそれぞれ比定する説がある。
北陸街道
ほくりくかいどう
越中国を東西に横断する近世の街道。古代・中世の名称を継承して北陸道(ホクリクドウとも読む)、また北国街道・北国往還などともよぶが(増補大路水経)、加賀金沢城下より大聖寺町(現石川県加賀市)への道が上通・上街道ともよばれるのに対して、下通・下街道とも称された(「下通山川駅路之図」加越能文庫など)。
〔成立と道筋〕
北陸街道は越中の背骨をなす中心街道として存在した。金沢城下と江戸を結ぶ加賀藩主の参勤街道とされ、また越中の礪波・射水、飛地新川郡の領地を支配するための拠点が存在した。街道筋にはもと城下町でもある今石動町(現小矢部市)、高岡町・魚津町のような地域の中心都市が存在し、また小杉宿(現小杉町)には礪波・射水郡奉行所が、東岩瀬町(現富山市)には新川郡奉行所が置かれていた。中世には小矢部川を利用する船運と、富山湾沿岸を航行する船運が人や物資の重要輸送手段となっていたが(→越中国)、近世に入り前田氏の越中支配により北陸街道が整備され、人の往来の主ルートとなった。京都と江戸を結ぶ地域の基幹道路であったが、近世の人の往来の主軸は江戸との交通となるために、また冬期の積雪の条件も加わり、越後や越中・加賀と京都を結ぶ日本海沿岸沿いの陸路の交通量は、海運が発展したのと異なって大きく限定されることになり、列島の反対側の東海道とは比較にならない交通量であった。
道筋は越中支配の中心拠点の変更とともに移り変った。天正一三年(一五八五)に越中西半を領有した前田氏は利勝(利長)を越中支配の拠点として守山城(現高岡市)に配したが、文禄四年(一五九五)には越中一国が前田氏領となり、慶長二年(一五九七)に利長は富山に移ったため、今石動―守山―富山のルートが越中の中心街道の北陸街道となる。同一四年大火にあった富山に代えて越中支配の拠点として城下町高岡が建設された。元和二年(一六一六)一一月に加賀藩より宿伝馬役を課された宿をみると、当時の北陸街道は今石動―中田(現高岡市)―水戸田(現大門町)―富山―町新庄―西水橋(現富山市)―滑川―魚津―三日市(現黒部市)―入膳(現入善町)―泊(現朝日町)―境(現同上)のルートとなっていた(「三ヶ国宿々役家高書上」温井家文書)。本巻では原則としてこのルートを北陸街道(巡見使道)の名称で使用した。寛永一六年(一六三九)に富山藩が支藩として成立して富山を城下に定めたが、富山城は加賀藩からの借城のため、正保四年(一六四七)の「越中道記」でも依然として、北陸街道は右のルートを記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
北陸街道
ほくりくかいどう
別称北国街道。滋賀県琵琶湖の北東岸を北上して越前 (福井県) に抜ける太平洋側と日本海側を結ぶ主要街道。彦根市鳥居本で中山道から分岐して,米原,長浜,木之本,柳ケ瀬,椿坂峠 (497m) ,中河内,栃ノ木峠 (537m) を経て越前に入り,北陸道を武生,福井,大聖寺,金沢,倶利伽羅 (くりから) 峠 (277m) ,高岡,富山,直江津を通過して新潟に達する。現在の国道8号線とほぼ一致する。中世以前は琵琶湖西岸の西近江路を通り,大津から敦賀を経て,越前に入ったが,近世以降琵琶湖東岸を通るようになった。
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世界大百科事典(旧版)内の北陸街道の言及
【越前国】より
…そのほか福井藩五箇(ごか)の奉書や鳥の子紙,福井城下の絹織物,府中の打刃物,鯖江藩の漆器と漆搔き,大野藩の面谷(おもだに)銅山,勝山藩のタバコなどが著名。交通は,陸上で北陸街道(北国路)が北進し,近江国境の栃ノ木峠を越えた板取駅から加賀国境の細呂木(ほそろぎ)駅まで15駅置かれたほか,西街道,美濃街道などが通った。海上では三国,敦賀が古くから港町として栄え,また九頭竜,日野川の川舟も三国と結んで発達した。…
※「北陸街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」