朝日日本歴史人物事典 「金沢貞将」の解説
金沢貞将
生年:生年不詳
鎌倉後期の武将。父は貞顕。正和4(1315)年に鎌倉幕府の評定衆・官途奉行,文保2(1318)年に右馬権頭・越後守に転じ引付頭人,元亨1(1321)年に越訴頭・小侍所。同4年から元徳2(1330)年まで六波羅探題,鎌倉下向後は引付頭人。探題として赴任した際は5000騎を引率するという前例のないものであった。父・貞顕からの手紙は朝廷情報の収集の指示が際立ち,朝廷の監視と情報収集が任務であった。元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡時は,鎌倉下道の大将として出陣し鶴見合戦に敗退し,北条高時から六波羅両探題職補任の御教書を拝領し鎌倉で討死した。貞将は「さだゆき」と読み,従来の「さだまさ」は兄弟の貞匡。称名寺に画像が伝来する。<参考文献>『金沢文庫資料図録/書状編1』
(福島金治)
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