カジミエシュ3世(その他表記)Kazimierz Ⅲ Wielki

改訂新版 世界大百科事典 「カジミエシュ3世」の意味・わかりやすい解説

カジミエシュ[3世]
Kazimierz Ⅲ Wielki
生没年:1310-70

ピアスト王朝最後のポーランド国王。在位1333-70年。〈大王〉と呼ばれる。これは,〈短身王〉と呼ばれた父と区別するために付けられた〈長身〉を意味する異名が,後に〈偉大〉の意味に解されるようになったもので,それほど,この国王の治世は後のポーランド史にとって重要な意味をもつ。13世紀に始まるドイツ人の東方植民によって急激な経済発展をとげたポーランドは,それを契機王国として統一に向かうことになった。1333年に父の死によって王位を引き継いだカジミエシュは,父がなんとか統一した王国を法典の整備(カジミエシュ法典)や貨幣の発行によって統一国家の名にふさわしいものとした。ボローニャ大学をモデルにクラクフに大学を創設した(ヤギエウォ大学)のも役人を養成するためであった。ドイツ人の東方植民による農村建設や都市建設,さらに鉱山の開発はカジミエシュの時代に頂点に達するが,ドイツ人による植民の進展はポーランドのヨーロッパ化をも意味した。ポーランドがほんとうの意味でヨーロッパ世界に仲間入りしたのは,この時期のことである。カジミエシュは,アンジュー家出身のハンガリー国王ロベルト・カーロイと同盟を結ぶことで領土問題の解決を図った。その仲介で35年にまずチェコ国王ヤン・ルクセンブルク協定を結び,すでにチェコ国王に臣従していたシロンスク地方をチェコ領と認める代りに,ポーランド王位に対するルクセンブルク家の相続権を放棄させた。また同じ年にドイツ騎士修道会とも協定を結び,東ポモジェ地方とヘウムノ地方を修道会の領土とする代りに,クヤウィ地方とドブジン地方をポーランド領とすることが決定された。男子の相続人にめぐまれなかったカジミエシュは39年にロベルト・カーロイと協定を結び,将来のポーランド王位をアンジュー家に約束する代りに,ポーランドがウクライナ地方に進出することを認めさせた。51年には,マゾフシェ地方も臣従させ,こうしてポーランドは東方への進出を開始したのである。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カジミエシュ3世」の解説

カジミェシュ3世(大王)(カジミェシュさんせい(だいおう))
Kazimierz Ⅲ (Wielki)

1310~70(在位1333~70)

ピアスト家最後のポーランド王。1320年に再建された王国の基礎をつくった。まずチェコとドイツ騎士団脅威を除去し,40年からはガーリチ‐ヴォルイニ公国の獲得に努め,このため,中央集権的な改革を進めた。中央官職をつくり,地方には総代官を配置。法と貨幣の一元化もめざした。国内植民,岩塩鉱山法,ユダヤ人特権,王領地の回収などの経済政策を展開。64年にクラクフ大学を創設。「土と木のポーランドをレンガのポーランドに変えた」と評される。

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世界大百科事典(旧版)内のカジミエシュ3世の言及

【セイム】より

…その形成過程について,詳しいことがまだよくわかってはいないからである。 ほぼカジミエシュ3世による国内統一が終わる14世紀中ごろにセイムの形成が始まると考えてよい。たとえば1351年,ハンガリー王ルドビクLudwik(1326‐82。…

【ピアスト王朝】より

…〈王朝〉の名称は不適切かもしれないが,慣例に従うことにする(図参照)。カジミエシュ3世(大王)の死でポーランド王国の支配者はアンジュー家出身のハンガリー国王ラヨシュ1世Lajos I(ポーランド名はルドビク・ハンガリー王Ludwik Węgierski。カジミエシュ大王の姉エリジュビエタの子)を介してヤギエウォ朝に変わるが,ピアスト侯家は周辺部の侯国の支配者として存続した(最終的な断絶は1675年)。…

※「カジミエシュ3世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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