石川県中央部にある市で、県庁所在地。加賀百万石の城下町として知られ、現在は北陸地方の中心都市である。また、戦災を免れたため、わが国の数少ない典型的な城下町としてのおもかげをいまに残し、近代日本文学の雄、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星(むろうさいせい)の3文豪を生んだ地でもある。1889年(明治22)市制施行。1925年(大正14)野村、弓取(ゆみとり)村を編入、1935年(昭和10)大野町と富樫(とがし)、米丸(よねまる)、鞍月(くらつき)、潟津(かたづ)、粟崎(あわがさき)の5村、1936年崎浦、三馬(みんま)、小坂の3村、1943年金石(かないわ)町と戸板、大野、二塚(ふたつか)の3村、1949年川北村、1954年額(ぬか)、安原、内川、犀川(さいかわ)、湯涌谷(ゆわくだに)の5村、1956年押野(おしの)村、1957年浅川村、1962年森本町を編入。面積468.79平方キロメートル、人口46万3254(2020)。1996年(平成8)に中核市となる。
[矢ヶ崎孝雄]
市域の東部は富山県境に接し、南東部は山地が広く約4分の3を占め、残りの北西部が平地で日本海と河北潟(かほくがた)に面する。市域南端の奈良(なら)岳(1644メートル)を最高に、高三郎(たかさぶろう)山(1421メートル)、県境に大倉山(1005メートル)、医王山(いおうぜん)(939メートル)などがあり、地形は北西に向かい傾斜する。この山地を犀川(さいがわ)、浅野川、金腐(かなくさり)川、森下(もりもと)川などが刻み、北西流し、犀川は日本海へ、他は河北潟に注ぎ、大野川で日本海へ排水する。この山地は深雪地帯でもあり、犀川ダム、内川ダムが設けられ、上水道、発電、灌漑(かんがい)、洪水調節など多目的に利用されている。山地の前面は丘陵地にもなり、主として新第三紀堆積(たいせき)岩類の津幡(つばた)・富樫急斜帯(撓曲(どうきょく)帯)の急崖(きゅうがい)で金沢平野に接し、市民に親しまれる卯辰(うたつ)山、三小牛(みつこうじ)山などがある。犀川、浅野川は並行して流れ、両河間に段丘を発達させ、小立野(こだつの)台地となり、その先端部に金沢城が築かれ、段丘下に扇状地を形成する。犀川の下流は左岸に隆起扇状地の寺町台地があり、浅野川の下流は河北潟に注ぐデルタ地帯で、洪水時には冠水もした低湿地である。海岸には砂丘が発達し、これを切って流れる犀川、大野川の河口は潮流の影響で北に湾曲している。金沢市域の平地は金沢平野の中心部をなすもので、旧金沢市街のほか新市街が延び、鉄道、自動車道も縦断し、本来の水田地帯が変容しつつある。なお、金沢市域に属する河北潟干拓地の一部では畑作営農が行われ、才田(さいだ)大橋が架橋された。
[矢ヶ崎孝雄]
日本海岸式気候で、冬の日照不足、積雪多量が特色である。気温は年平均14.6℃とさして低くなく氷の張ることはまれである。海岸、平野部から山地に向かい積雪は急増する。春から夏は好天が多く日照も太平洋岸よりやや多くなる。春先のフェーン現象、冬の雷、梅雨・台風の影響の少ないことなども特色である。年降水量は2398.9ミリメートルで冬季に集中している。湿度は夏と冬に高く、平均相対湿度は72%(以上、1981~2010)である。
[矢ヶ崎孝雄]
縄文時代の遺跡は段丘、扇状地に多く、弥生(やよい)時代の遺跡は砂丘背後の低湿地にあり、玉造り集落もある点、注目される。古墳の分布も多く、古墳時代、北加賀の中心地であったと推定もされる。823年(弘仁14)越前(えちぜん)国より加賀国が独立し、加賀郡(後の河北郡)と石川郡とに分かれたが、市域は両郡にわたっている。犀川、大野川の2河口にまたがる大野湊(みなと)がにぎわい、陸路も整い、低湿地への開発が進み、瓦(かわら)、須恵(すえ)器の窯業も発達した。しかし、中世には荘園(しょうえん)の成立は比較的遅かったが、現在の地名に伝わる荘園、郷(ごう)、保(ほ)の名はいくつもある。浅野川左岸には山崎窪市(やまざきくぼいち)ができ、北加賀経済の中心的市場集落で、金沢の都市発展の基をなしたとみられる。また、紺掻(こんか)き集団が森下(もりもと)や大野湊その他に成立し、港町を中心に商業活動も盛んになった。真宗が広まり、その一向一揆(いっこういっき)は1488年(長享2)守護富樫政親(まさちか)を本拠の高尾(たこ)城(現称たかお)で滅ぼし、1546年(天文15)金沢坊(尾山御坊(おやまごぼう))を完成し、加賀一国を統治した。1580年(天正8)織田軍の佐久間盛政(もりまさ)が金沢坊を落とすまで、一向一揆の統治が約100年続いた。1583年前田利家(としいえ)が金沢城に入り、以後明治に至るまで前田氏はここを居城に加賀、能登(のと)、越中(えっちゅう)3国を支配してきた。金沢坊による寺内町から、近世の城下町として金沢の都市建設が進められた。犀川、浅野川を自然の防衛線とし、その内側の用水を堀とし、辰巳(たつみ)用水を城内に引き込み、防衛設備を整えた。また、真宗以外の寺院を三方に集め、寺町の町名がいまもある。金沢は加賀百万石の城下町として発達し、元禄期の人口約12万、全国第4位の都市に発展した。学問、芸術などを尊重し、いまに伝わる多くの伝統工芸を発達させ、この面で京文化を多く取り入れていた。
明治維新により1871年(明治4)廃藩置県で金沢県が置かれたが、翌年県庁を美川(みかわ)に移し、石川県と改称された。このため金沢はさびれ、1873年県庁は金沢に戻ったが、県名はそのまま現在に至っている。金沢製糸社、石川県勧業場、金沢撚糸(ねんし)社などを設立し、士族が殖産興業に努めたが、これらは地場産業の基礎となった。また、第九師団司令部が置かれ軍都にもなり、第四高等学校などの設立で学都ともなった。太平洋戦争でも戦災を受けず、城下町の町並み、文化や伝統などを温存し、多くの伝統工芸を育て、北陸の中枢管理機能をもち、金沢大学、金沢美術工芸大学をはじめとして大学も多い。日本の伝統的都市として高く評価されている。
[矢ヶ崎孝雄]
水稲単作を主体にするが、ナシ、リンゴなどの果樹栽培が一部みられ、北部低湿地では蓮根(れんこん)、砂丘地ではスイカ、サツマイモ、ダイコン、山地ではタケノコなどが生産され、特産となっている。河北潟干拓地では大規模な畑作営農が始められている。ただし、専業農家は38.0%、兼業農家62.0%である(2020年農林業センサス)。
水産業の経営体は少ないが、金沢港は県内有数の漁港で、水揚げ量(属地)は、エビ類、ニギス類、カレイなど2033トン(2018年海面漁業生産統計調査)に及ぶ。なお、アマエビ、ズワイガニ、ブリ、川魚のゴリなど金沢の名物となっている。
工業は金沢市の重要産業であり、とくに機械、繊維工業が主軸をなし、これに各種の伝統工業が発達している点、注目に値する。城下町として消費的文化都市であった金沢は、明治以降近代工業が取り入れられた。絹織物は明治20年代に輸出羽二重(はぶたえ)の生産で飛躍的に発展したが、津田米次郎(よねじろう)(1862―1915)は絹織物の力織機を発明、1906年(明治39)特許を得、絹織物と機械工業の発展に著しく貢献した。金沢には絹織物の商社も発達し、とくに能登(のと)方面に傘下工場を拡大した。織物工業は人絹織物から合成繊維織物へと進展し、近年はポリエステル、ナイロンの長繊維織物をおもに生産している。機械工業は繊維工業を上回る生産額を示すが、とくに繊維機械の生産が主体となっている。なお、金属、電気機械器具、印刷、食料品工業なども発達している。金沢で注目されるのは伝統工業で、近代風の九谷焼(くたにやき)、独創的で五彩、ぼかしを組み合わせ格調高い加賀友禅(ゆうぜん)、豪華、優美の金沢漆器、金沢仏壇、全国で独占的生産の金箔(きんぱく)、加賀象眼(ぞうがん)、大樋(おおひ)焼、桐(きり)工芸品のほか、加賀藩以来の伝統によるものが多数ある。
[矢ヶ崎孝雄]
南に山地を控えた金沢は、東西の陸上交通と日本海の海上交通を主体としている。現JR北陸本線は1898年(明治31)に米原(まいばら)方面と通じ、4月金沢駅が開業、1913年(大正2)に直江津(なおえつ)と連絡、東京方面に通じた。ただ冬季の大雪時には交通もしばしば途絶したが、近年は著しく改善されてきた。2015年(平成27)には、北陸新幹線長野―金沢間が延伸、開業した。同時に北陸本線の金沢―直江津間は第三セクター化され、石川県部分はIRいしかわ鉄道に移管された。海上交通は大野川、犀川河口を利用し、大野港、金石(江戸時代は宮腰(みやのこし))港が栄えた。ここは銭屋五兵衛(ぜにやごへえ)のほか多くの海商が輩出した。大野川から河北潟、浅野川をさかのぼり、金沢市街地までも舟運が利用できた。大正以後、私鉄も発達したものの近年、自動車交通の発達で北陸鉄道の浅野川線、石川線を残し他は廃止された。国道8号が整備されたほか、157号、159号、304号、359号が縦横に走り、北陸自動車道と能登有料道路(2013年無料化後「のと里山海道」と愛称する)が建設され、1970年(昭和45)には大野川河口に金沢港が築港され、貿易も可能となった。交通体系は近年一変し、市内交通でも路面電車が廃され(1967)たが、狭い道幅からくる車の渋滞が生じている。積雪時は交通に支障をきたすので、市内の道路をはじめ鉄道、国県道、自動車道とも除雪、融雪に努力している。
[矢ヶ崎孝雄]
金沢はわが国の典型的城下町であり、その特色がよく保存された古都として文化的に評価が高く、観光面でも注目される都市である。国指定重要文化財としては尾崎神社の本殿、中門、透塀(すかしべい)など、尾山神社神門、金沢城跡の石川門、三十間長屋、旧第四高等学校の赤れんが校舎、成巽閣(せいそんかく)、旧松下家住宅、旧鯖波(さばなみ)本陣石倉家住宅がある。兼六園は特別名勝、成巽閣庭園は国指定名勝、県立美術館には国宝の野々村仁清(にんせい)作「色絵雉香炉(きじこうろ)」、銘吉光の剣をはじめ国指定重要文化財の絵画・書跡その他工芸品を多数蔵している。九谷焼、漆器、絵画など県指定の文化財は市内に広く所蔵されている。なお、城下町の伝統は、武家屋敷や市内の用水路、玉泉(ぎょくせん)園などの庭園や寺院、商家、旧廓(くるわ)などに残されており、観光客の歩行コースも設定されている。とくに忍者寺と称される妙立(みょうりゅう)寺には「からくり」があり、観光客に人気がある。東山に残る茶屋町の町並は2001年(平成13)、主計町(かずえまち)の茶屋町の町並は2008年、卯辰山麓の寺町は2011年、寺町台の寺社、町家の町並みは2012年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。加賀の文化を示す施設として、旧陸軍兵器庫であった赤煉瓦(れんが)棟の県立歴史博物館、石川県埋蔵文化財センター、県立能楽堂、金沢くらしの博物館、市立中村記念美術館、市立安江(やすえ)金箔工芸館、石川近代文学館、その他多数あり、郊外には県立の銭屋五兵衛記念館、銭屋五兵衛の本宅の一部を移築し再現した銭五の館などがある。総じて郷土関係の資料を展示する。また1996年(平成8)には金沢市民芸術村がオープンした。このほか、観光地には卯辰山公園、湯涌(ゆわく)温泉、深谷温泉、医王山、健民海浜公園がある。年中行事は1月の加賀鳶(とび)による出初式、6月の「金沢百万石まつり」が名高い。
[矢ヶ崎孝雄]
『森田平次著『金沢古蹟志』全12編(1933~1939・金沢文化協会)』▽『『金沢市史 現代篇』上下(1969・金沢市)』▽『金沢市役所編『稿本金沢市史』復刻版(1973・名著出版)』▽『北国新聞社編『金沢百万石の城下町』(1963・河出書房新社)』▽『田中喜男著『わが町の歴史 金沢』(1979・文一総合出版)』▽『『金沢市史 続編』(1989・金沢市)』▽『『金沢市史 資料編』全15巻(1996~2003・金沢市)』
横浜市の東京湾岸南端、金沢区中央部の一地区、および区名。旧金沢町。区内には京浜急行電鉄本線(金沢文庫駅・金沢八景駅)、同逗子(ずし)線、新都市交通システム「金沢シーサイドライン」、国道16号、357号が通じ、横浜横須賀道路、首都高速湾岸線も通じている。金沢地区は平潟湾(ひらかたわん)岸の一帯で、鎌倉時代には北条氏の荘園(しょうえん)であった。称名寺(しょうみょうじ)(真言律宗)、金沢文庫がある。平潟湾岸は景勝地で鎌倉に近く、鎌倉時代からその行楽地とされ、江戸時代に金沢八景と名づけられた。また、その湾奥部に江戸前期に泥亀(でいき)、金沢入江、大沢などの干拓新田が造成された。第二次世界大戦中に、横須賀軍港関係の施設が設けられて近代的開発のきっかけをなし、海岸は根岸(ねぎし)湾臨海工業地域造成事業の一環として金沢地区埋立て事業が進められ、海の公園や人工砂浜もつくられ、沖合いの八景島にはシーパラダイスがある。
[浅香幸雄]
石川県の県庁所在地。1889年市制。人口46万2361(2010)。県の中央やや南寄りに位置し,金沢平野の北部を占める。市域の南東側は白山山系とその北端部である砺波丘陵があり,南東端に奈良岳(1644m)がそびえている。全体的に南東から北西に向かって大きく傾斜した地形で,この傾斜面を犀(さい)川,浅野川,金腐(かなくさり)川,森下(もりもと)川が流下する。犀川,浅野川にはさまれた小立野(こだつの)台地が沖積平野に接する付近に市街地の中心がある。市街地は1583年(天正11)前田利家が入府して以来,藩政の中心となり,その城下町として発達した。雪の多い湿潤な自然条件と,近畿地方から移入された技術および加賀藩の殖産興業策などによって九谷焼,金沢漆器,金沢箔,加賀友禅など特色ある産業が発展した。廃藩置県後,一時県庁が手取川河口の美川町(現,白山市)に移されたことなどによって人口が減少する傾向が見られたが,1898年北陸本線が市域の西寄りに開通し,近世以来の伝統産業を振興するとともに,1900年代初めに専売局,10年代に硬質陶器,織機製造などの工場が設立され,人口が増加していった。現在はJR北陸本線,北陸鉄道,北陸自動車道,国道8号が通じる交通の要地で,県内各地および富山県,福井県からも通勤者が集まり,北陸地方の中心都市となっている。市内の工業では繊維と機械が盛んで,製造品出荷額では繊維が県全体の17.1%,機械が24.5%(1995)を占めている。また金沢市には1970年開港の金沢港があり,重要港湾の指定をうけている。第2次世界大戦で被災しなかったため,城下町時代の町並みや遺構がよく残され,史跡,文化財も多い。重要文化財では建造物のみをあげても,尾崎神社社殿,尾山神社神門,金沢城三十間長屋,同石川門,成巽閣(せいそんかく),旧第四高等中学校本館など,また名勝として兼六園および成巽閣庭園などが有名。
執筆者:斎藤 晃吉
加賀,越中,能登3国を領した前田氏の城下町。16世紀ごろ,犀川,浅野川にさしはさまれた小立野台地突端で金屋が砂金を採掘し,芋掘藤五郎伝説も付加されて,金洗沢,金掘沢に発する金沢の地名が定着した。1546年(天文15)本願寺は,ここに阿弥陀如来をまつる金沢御堂(みどう)を建立,金沢御坊(ごぼう)が成立した。御坊内には近江町,堤町,西町,後町(うしろちよう)の,いわゆる寺内町を立てた。80年(天正8)金沢御坊をおとした佐久間盛政は,ここをそのまま城下町としたが,83年前田利家が入城すると,金沢を尾山と改め,近世的城下町の建設を始めた。城の正面(大手)を北側の尾坂口に移し,尾張町,中町,今町,米町,塩屋町,博労町,寺町,新町,鍵町,枯木町,大工町,桶町,鍛冶町,袋町,魚町を置いた。一方,城内は一族・重臣が住む内山下(うちさんげ)となっていた。2代藩主利長のとき地名を金沢と改め,99年(慶長4)に内総構堀(うちそうがまえぼり),1611年に外総構堀を掘り,軍備を整えた。元和期(1615-24)には犀川河原を開拓して片町,川南町,河原町,大工町などを立て,市中の寺院を移して今日の泉野台寺院群,卯辰(うたつ)山麓寺院群とした。寺院の移動は一向宗寺院,門徒対策の側面が強い。また,外港の宮腰(みやのこし)港へ直線の宮腰往来を通した。31年(寛永8),35年の大火を機に身分による街区の配置が実施された。その特徴の一つが,城下の要衝に位置された本多(5万石),長(ちよう)(3万3000石),横山(3万2500石)などの八家(はつか)をはじめ,これに近い大身の下屋敷(家臣団居住地)を中心に町人が集住する小城下町が成立し,江戸に似た複合都市の景観を呈したことである。なお,元禄期(1688-1704)には人口12万をこえた。
寛永初期には町奉行を置き,町年寄などの町役人を選任して町政を行ったが,町人を町役(夫役,伝馬役など)を負担する本町,地子銀を納める地子町,町役,地子銀を負担する七ヶ所居住に区分した。この他に,農民から農地を借用する相対請地(あいたいうけち),寺社奉行支配の寺社門前地の住民があり,低所得層を占めた。彼らはしばしば打毀,騒擾をおこしたが,1858年(安政5)の卯辰山騒擾はよく知られており,処刑された主謀者のための七稲(なないね)地蔵が立っている。3代藩主利常によって始められ,5代綱紀のとき完成した金工(象嵌など),漆芸(蒔絵など),木工,陶器(大樋焼)などの工芸品や,尊経閣文庫の膨大な図書,百工比照(ひやつこうひしよ)(工芸品の標本のコレクション。現在は前田育徳会所蔵)などは,前田氏のサロン的な文化として発達したが,今日,百万石文化として市民に継承されている。
執筆者:田中 喜男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…得蔵荘ともいい,〈とくくら〉ともよむ。加賀国石川郡北部(現,金沢市北西端)の臨海荘園で,犀川河口西岸に近い金沢市専光寺町の戸畔(とくろ)が遺称地と考えられる。1088年(寛治2)醍醐寺少別当賢円が加賀郡大野郷(中世の石川郡大野荘)の一部を再開発し,すでに国衙領として収公されていた寺領加賀国高羽荘,治田(はりた)荘の領有権回復工作を断念する代償として,翌89年に加賀守藤原家道から醍醐寺に充てられ,賢円が保司となった。…
※「金沢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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