建武新政(読み)けんむのしんせい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「建武新政」の意味・わかりやすい解説

建武新政
けんむのしんせい

1333年(元弘3・正慶2)から36年(延元1・建武3)の間、後醍醐(ごだいご)天皇によって行われた専制政治

[佐藤和彦]

成立過程

畿内(きない)近国の悪党蜂起(あくとうほうき)、奥州の蝦夷(えぞ)反乱が、鎌倉幕府の衰勢を明白にしつつあったとき、大覚寺(だいかくじ)統と持明院(じみょういん)統との皇位継承をめぐる深刻な対立を止揚し、天皇親政を実現するために、後醍醐天皇は討幕の計画を具体化しつつあった。天皇は1318年(文保2)に即位し、21年(元亨1)後宇多(ごうだ)法皇の院政を廃して記録所を再興した。天皇は吉田定房(さだふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、北畠親房(きたばたけちかふさ)をはじめ、日野資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)らを登用し、無礼講や朱子(しゅし)学の講書会を開いて討幕計画を練った。24年(正中1)9月、討幕の密計が事前に漏れて六波羅(ろくはら)軍の急襲を受けて計画は失敗した(正中(しょうちゅう)の変)が、天皇は屈せず、畿内近国の悪党集団、皇室領の武士、得宗(とくそう)専制に批判的な足利(あしかが)・新田(にった)らの外様御家人(とざまごけにん)、南都北嶺(なんとほくれい)の僧兵などに働きかけて再度計画を進めた。31年(元弘1)4月、吉田定房の密告によって事は露顕し、鎌倉幕府軍によって日野俊基、円観(えんかん)、文観(もんかん)らが逮捕された。天皇はかろうじて笠置(かさぎ)(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)に逃れ、近隣の土豪・野伏らに参陣を呼びかけた。河内(かわち)の土豪で散所(さんじょ)の長者であった楠木正成(くすのきまさしげ)がこれに応じて赤坂(あかさか)城(大阪府南河内郡千早(ちはや)赤阪村)で挙兵した。しかし、20万と称される幕府の大軍によって笠置も赤坂も旬日のうちに蹂躙(じゅうりん)され、天皇は捕らえられて翌32年3月隠岐(おき)へ流刑となった(元弘(げんこう)の変)。

 天皇は隠岐にあっても、全国各地の反幕府勢力と連絡を取り合い、1332年11月には護良(もりよし)親王が吉野(よしの)で、正成が千早城(南河内郡千早赤阪村)で再挙するのに成功した。護良親王は、討幕の令旨を紀伊・伊予・播磨(はりま)の寺院衆徒や土豪・野伏らに発した。こうして諸国の反幕府運動が急速に盛り上がり、各地で反乱が続発した。このような戦局の転換に乗じて、33年閏(うるう)2月、天皇は隠岐を脱出して、伯耆名和湊(ほうきなわみなと)(鳥取県西伯郡大山(だいせん)町)の長者名和長年(ながとし)の助けを受けて船上山(せんじょうさん)に拠(よ)り、討幕の綸旨(りんじ)を諸国に発した。足利高氏(尊氏)(たかうじ)は幕府の将として西上していたが、4月下旬には後醍醐天皇に応じて反幕府の旗色を鮮明にし、陸奥(むつ)の結城(ゆうき)氏、信濃(しなの)の小笠原(おがさわら)氏、薩摩(さつま)の島津氏など全国各地の有力武将に軍勢催促状を発して自軍への参加を要請した。足利軍、赤松軍、千種(ちぐさ)軍が京都に突入し、六波羅軍を壊滅させたのは5月7日のことである。東国においても5月8日に新田義貞(よしさだ)が挙兵し、長駆して鎌倉を攻略して、22日には鎌倉幕府を倒壊させた。

[佐藤和彦]

新政の開始と諸機構

1333年6月、天皇は京都に帰り、旧領回復令を発して、戦乱のなかで失われた所領を旧所有者に返し、討幕の功労者への除目(じもく)を行った。天皇は延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の世、すなわち醍醐・村上(むらかみ)両天皇の治世を理想の時代として追慕し、「朕(ちん)ノ新儀(しんぎ)ハ、未来ノ先例タルヘシ」との自負のもと専制的な政治を開始した。いわゆる「建武中興」である。天皇はその絶対的な権威を示すために、土地の領有はすべて綸旨によってのみ確認され安堵(あんど)されるものであるという個別安堵法を公布した。しかし、この法令は、土地領有に関する前代以来の慣習を根底からくつがえすものであったから、諸国武士の反発を招き、所領安堵を求める武士たちが続々と上洛(じょうらく)して、京都は大混乱に陥った。天皇も当法の適用を北条(ほうじょう)氏関係の所領に限定せざるをえず、現に知行している所領の安堵については、諸国の国司(こくし)によって行うという諸国平均安堵法へと変更した。

 建武新政府の諸機関としては、所領安堵に関する訴訟を取り扱う記録所、諸合戦の論功行賞を行った恩賞方、悪党の跳梁(ちょうりょう)や農民闘争の激化によって荘園(しょうえん)領主と地頭(じとう)武士との間で頻発していた所務相論、年貢未納などに関する訴訟を扱う新設の雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、皇居の警衛や京都の警備にあたった武者所(むしゃどころ)などが中央に設置された。なかでも所領問題の絡む雑訴決断所が重要であり、1333年9月の初旬に設置されたときには4番編成であったが、訴訟の増加につれて8番編成へと変更された。それでも激増する事務を処理するには職員は不足がちで、「器用ノ堪否(かんぷ)沙汰(さた)モナク、モルル人ナキ決断所」(「二条河原落書」)と嘲笑(ちょうしょう)されたように、訴訟事務の遅滞をどうすることもできなかった。

 地方行政機関としては、国衙(こくが)と守護所(しゅごしょ)が置かれ、各地域の治安維持にあたった。奥州と関東にはそれぞれ将軍府が置かれた。33年10月には陸奥守(むつのかみ)北畠顕家(あきいえ)が義良親王を奉じて多賀城(たがじょう)(宮城県多賀城市)へと下向し、12月には足利直義(ただよし)が成良親王を奉じて鎌倉へと下っている。翌年正月、奥州将軍府には、式評定衆(しきひょうじょうしゅう)、引付(ひきつけ)、政所(まんどころ)、侍所(さむらいどころ)、寺社奉行(ぶぎょう)、安堵奉行が設置され、鎌倉将軍府には、関東10か国の管轄を目的とする関東厩番(うまやばん)が置かれた。

[佐藤和彦]

施策の矛盾と政権の崩壊

両将軍府の設置は、建武新政府の成立直後から始まっていた後醍醐天皇と足利尊氏との確執の所産であった。尊氏は武蔵守(むさしのかみ)に任命されたものの、建武政府のどの部局にも属さず、討幕の成功時に開設した奉行所において全国各地の武士たちを糾合しつつあり、両者の対立はしだいに顕在化していった。1334年1月29日、天皇は年号を建武と改元し、天皇の絶対性を誇示するために大内裏(だいだいり)の造営を発表し、貨幣鋳造(乾坤通宝(けんこんつうほう))、紙幣発行などを計画した。さらに諸国一宮、二宮の本家職(ほんけしき)・領家職(りょうけしき)を停廃して天皇の直接支配下に入れ、諸国の関所を停止し、同5月には徳政令(とくせいれい)を発布したが十分な効果はあがらなかった。恩賞の不公平さに対する人々の不満、大内裏造営の費用を賦課された武士、さらにその負担を転嫁された地方農民の建武政府に対する反発がしだいに高まり、政権の内部矛盾も露呈しつつあった。この年の5月から8月にかけての若狭国(わかさのくに)太良荘(たらのしょう)の農民訴状や、8月の二条河原落書などは、全国各地の民衆の建武新政に対する批判の声であった。建武政権下の揺れ動く世相を冷徹な目でとらえた「二条河原落書」には、新政府になっても社会治安がすこしも回復しないこと、中央機関の人材不足、下剋上(げこくじょう)と自由狼藉(ろうぜき)のありさまが如実に描写され、建武政権の崩壊を予告すらしている。同年10月、尊氏と対立していた護良親王が宮中で捕縛され、12月には鎌倉に幽閉された。翌35年6月、権大納言西園寺公宗(さいおんじきんむね)らの天皇暗殺計画が露見し、7月には先の執権北条高時(たかとき)の遺子時行(ときゆき)が諏訪頼重(すわよりしげ)らに擁立されて信濃で蜂起(ほうき)し、鎌倉を攻撃して足利直義軍を破った(中先代(なかせんだい)の乱)。8月、尊氏は直義救援のために東下し、時行軍を敗退させ鎌倉を奪回した。天皇は帰京を命令したが、尊氏はこれを無視し、11月には新田義貞誅伐(ちゅうばつ)を名目に、建武政権へ反旗を翻した。新田軍を箱根竹の下で破った足利軍は、36年(延元1・建武3)正月に入京したが、京中合戦で敗れて西走し九州へ逃れた。この途中、播磨室津(むろつ)(兵庫県たつの市)の軍議で一族および有力武将を四国・中国の各地に配置することを決定し、備後鞆津(びんごとものつ)(広島県福山市)で持明院統の光厳(こうごん)上皇の院宣(いんぜん)を得て、朝敵の汚名を逃れることに成功した。3月九州多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)の合戦で勝利した足利軍は、山陽道と瀬戸内海を東上し、5月、湊川(みなとがわ)(兵庫県神戸市)の合戦で正成を討ち死にさせ再度入京した。天皇は叡山へと逃れたが尊氏の強請により京都へ帰り、10月光明(こうみょう)天皇へ神器を渡した。12月、天皇は吉野へ潜幸して南朝を樹立したが、政治的退勢を挽回(ばんかい)することはもはや不可能であった。

[佐藤和彦]

『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院)』『佐藤進一著『南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』『永原慶二著『中世内乱期の社会と民衆』(1977・吉川弘文館)』『佐藤和彦著『南北朝内乱史論』(1979・東京大学出版会)』『森茂暁著『建武政権』(教育社歴史新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「建武新政」の意味・わかりやすい解説

建武新政 (けんむしんせい)

1333年(元弘3)5月に鎌倉幕府を滅ぼしてから,36年(延元1・建武3)10月に足利尊氏に降伏するまでの後醍醐天皇の政治。

1321年(元亨1)12月の親政開始後,後醍醐は独自な政治を展開,32年には神人(じにん)公事停止令により洛中の神人・寄人(よりうど)の供御人化を計り,諸国の供御人交名(きようみよう)を提出させ,洛中の酒屋に造酒司を通じて酒鑪役(しゆろやく)を賦課し,洛中の地子も停止したと推定される。洛中の地と住人を天皇直轄とし,商工民を広く支配下に置こうとしたこの政策は,酒屋などの商工民を神人・寄人とする大寺社の反発により譲歩を余儀なくされたとはいえ,後醍醐の専制的姿勢はすでにここに現れている。また後醍醐は持明院統の管領する荘園に干渉し,その訴訟を綸旨(りんじ)で裁決し,同じく綸旨によりそれを腹心に与え,早くも綸旨万能の意図を示し,親政の機関記録所の活動も活発であった。宋学を学び,除目(じもく)の旧儀を復活するなど,こうした後醍醐の意欲的政治に傾倒する貴族・官人も多く,後醍醐は家格を無視してこの人々を重用した。29年(元徳1)みずから南都北嶺に赴き,30年に米・酒の沽価(こか)を定め,関所停止令を発したのも,討幕のための人心収攬策であるとともに,大寺院をその権威の下に置き,幕府に侵害された交通路支配権を奪回し,流通を支配しようとする意図があった。こうした専制的姿勢に後醍醐を駆りたてたのは,事実上幕府に〈補任〉される職と化した天皇位にかかわる鋭い危機感であり,宋朝の君主独裁制に倣い,上級貴族による議政組織や家格の秩序,官司請負制を否定して,人事権を含む政治の全実権を天皇の掌握下に置くのが後醍醐の政治目標であった。それを支えたのは天皇の交替ごとにおこる官職・荘園所職の流動にいらだつ貴族・官人で,所職の秩序から排除された悪党甲乙人の活発な動きにも後醍醐は期待を寄せていた。

後醍醐の姿勢は討幕の成功とともにいっそう高揚する。配流地でもみずから定めた元弘の元号を使い続けた後醍醐は33年5月,光厳朝の人事をいっさい認めず旧に復し,関白を廃止,6月には元弘の乱中の所領の移動ももとに戻し,敵対者の所領,幕府建立の寺院領を没収,所領の安堵・移動はすべて綸旨によるという綸旨絶対の政治を,腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じて推進した。しかし討幕に大功ある護良(もりよし)親王の要求する征夷大将軍の職を認めざるをえず,所領に不安を抱く武士たちが安堵の綸旨を求めて京に殺到,足利尊氏の下に集まるものも多く,新政は直ちに障害に逢着する。これに対し7月,後醍醐は敵対者の範囲を北条氏一族に限定し,当知行安堵を国司の所管とした諸国平均安堵法を発し,旧幕府の官僚を採用して所領相論の裁決権を持つ雑訴決断所を設置,綸旨万能を緩和した。しかし他方で諸国の一宮,二宮の本家を廃止して国分寺とともに天皇直轄とし,知行国制打破をねらって守護と並置した国守に高位の貴族を任命,さらに官司請負制の否定を目ざし,供御人を掌握する官司の長官に腹心の官人・武士を任ずるなど,天皇専制を貫徹しようとした。だがこれは貴族の強い反発を呼び,また従来の御家人役,内裏大番役が広く荘官にまで課された結果,御家人身分を失った武士の不満も高まり,政府内部にも対立が目だってくる。北畠親房・顕家が後醍醐の皇子義良を擁する陸奥将軍府,足利直義が皇子成良を奉ずる鎌倉将軍府など,小幕府のような組織的な地方機関ができたのはその間のことである。

 34年(建武1)に入り後醍醐は大内裏造営を開始,貨幣を鋳造して流通の要の掌握を計り,5月徳政令を発し(建武の徳政),武家社会の長年の慣習である20ヵ年年紀法否定の方向を示す。また荘園・公領の地頭職の田数を調査,年貢・雑物の20分の1の貢納,10町に1人の仕丁賦課を定め,関所停止令など元亨以後の親政期の政策も維持するなど,その高姿勢は変わらない。実現しなかったが元(げん)に倣い僧衣を黄色に統一しようとしたのもその現れで,禅宗寺院に五山の制を導入,《弘安礼節》を改めて僧侶に対する書礼を高めるなど,寺院政策でも先例無視の新方式を強行した。しかし訴訟の激増による裁判の混乱に対処して雑訴決断所の機能を大幅に拡充せざるをえず,一方では寵妃阿野廉子,寵僧文観,千種忠顕,名和長年など三木一草といわれた腹心の放恣も目だち,〈二条河原落書〉の描いたような混乱の中で,護良の没落,各地の北条氏与党の反乱等,動揺はいっそう深刻化した。綸旨の権威は後醍醐の意図に反して低下し,ついに35年,西園寺公宗と結んだ高時の子北条時行による中先代の乱を契機に,時行を追って鎌倉を回復した尊氏・直義兄弟は新政に反旗を翻す。後醍醐は武者所を新田義貞一族で固めてこれに対抗したが,義貞軍は東上する足利軍に敗れ,一旦,京から足利軍を追い落としたものの,新政下で九州の軍事指揮権を与えられていた尊氏は九州で態勢を立て直して東上,後醍醐は比叡山に追い出され,建武新政は瓦解した。
南北朝時代
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百科事典マイペディア 「建武新政」の意味・わかりやすい解説

建武新政【けんむしんせい】

1333年―1336年の後醍醐天皇による公家一統政治。正中の変元弘の乱を経て,護良(もりよし)親王や楠木正成らの活躍で鎌倉幕府を倒し,天皇独裁の官僚国家の樹立を企図,摂政・関白の廃止,雑訴決断所以下の部局の新設,国司・守護併設などの施策を行った。しかし古代の延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)を理想とする政策は武士階級の反発を招き,後醍醐天皇の信任を得ていた新田義貞も足利尊氏の武力には力及ばず短時日のうちについえた。
→関連項目足利直義恩賞方鎌倉将軍府神崎荘京都大番役親王将軍太平記多賀城天皇名和長年南北朝時代二条河原落書綸旨

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