金鈴社(読み)きんれいしゃ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金鈴社」の意味・わかりやすい解説

金鈴社
きんれいしゃ

日本画の研究団体。1916年(大正5)文展日本画部の新鋭作家結城素明(ゆうきそめい)、鏑木清方(かぶらききよかた)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)、吉川霊華(きっかわれいか)、松岡映丘(えいきゅう)らと雑誌『中央美術』を主宰する田口掬汀(きくてい)が結成。翌17年2月東京・三越本店において第1回展を開催、自由な研究と個性の表現を目ざし、毎月研究会を開き、新傾向の画風に無理解な文展当局に反省を求め、『中央美術』に進歩的な感想や論説を発表した。22年、第7回展開催後の6月に解散したが、会員はその後帝展(1919年、文展は帝展と改称)を代表する作家となって活躍した。

[佐伯英里子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の金鈴社の言及

【平福百穂】より

…また12年からは短歌雑誌《アララギ》の表紙絵を毎号描くなど同時代ジャーナリズムを活躍の舞台として出発した。09年の第3回文展の《アイヌ》以降,文展を中心に出品,第8回文展の《七面鳥》は三等賞となり,15年川端竜子,小川芋銭,森田恒友らと珊瑚会を結成し,翌年には結城素明,吉川霊華,松岡映丘,鏑木清方らと金鈴社を結成。画風も初期の自然主義的な描写を土台としながら,しだいに変化を示す。…

【明治・大正時代美術】より

…しかしそれにもかかわらず,依然として保守的なマンネリズムを続けていたため,それが特に目立つ日本画部に革新の声があがった。1916年,東京の鏑木清方,吉川霊華(きつかわれいか)(1875‐1925),結城素明,平福百穂,松岡映丘と,美術雑誌《中央美術》(1915‐36)の主宰者田口掬汀(1875‐1943)が金鈴社を結成して改革を求めた。これに続いて18年には,京都市立絵画専門学校での竹内栖鳳門下から,土田麦遷,村上華岳,榊原紫峰,小野竹喬,野長瀬晩花(のながせばんか)(1889‐1964)の5名が,栖鳳と中井宗太郎を顧問に国画創作協会を結成して独立し,後期印象派への関心のうちに,清新な作品を生み出すことになる。…

※「金鈴社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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