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吉川霊華 きっかわ れいか

美術人名辞典の解説

吉川霊華

日本画家。東京生。名は準、通称は三郎、別号に瑞香室。幕儒吉川淡斎の子。浮世絵師橋本周延の門に入り、のち狩野派・土佐派を学ぶ。一時橋本雅邦や洋画家の小山正太郎に師事する。国史内典・有職故実に精通し、また冷泉為恭私淑して、大和絵風の画境を創り、端麗な白描画を能くした。金鈴社同人。帝展審査員。昭和4年(1929)歿、55才。

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デジタル大辞泉の解説

きっかわ‐れいか〔キツかはレイクワ〕【吉川霊華】

[1875~1929]日本画家。東京の生まれ。本名、準(ひとし)。狩野派土佐派を学び、のち冷泉為恭(れいぜいためちか)に私淑して大和絵を研究。白描画を得意とした。代表作「離騒」。

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百科事典マイペディアの解説

吉川霊華【きっかわれいか】

日本画家。東京生れ。本名準(ひとし)。大和絵に共鳴,漢魏六朝の画風も研究して独自の画風を確立。古典に学んだ描線による作品は品格が高い。出品歴わずかにして帝展審査員に推された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

吉川霊華 きっかわ-れいか

1875-1929 明治-大正時代の日本画家。
明治8年5月4日生まれ。浮世絵や狩野(かのう)派,土佐派をまなび,のち復古大和絵を研究。大正5年鏑木清方(かぶらき-きよかた)らと金鈴社をおこす。15年帝展に「離騒」を出品,白描画風の線が反響をよんだ。昭和4年3月25日死去。55歳。東京出身。本名は準(ひとし)。作品はほかに「菩提達磨(ぼだいだるま)」「赫耶姫(かぐやひめ)」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

吉川霊華

没年:昭和4.3.25(1929)
生年明治8.5.4(1875)
明治大正期の日本画家。東京湯島生まれ。本名準。父は儒者。初め浮世絵,次いで狩野派を学んだのち,明治25(1892)年から松原佐久に有職故実,山名貫義に住吉派を学ぶ。36年烏合会,歴史風俗画会に参加,歴史画研究にも励んだが,幕末の復古大和絵の画家冷泉為恭に深く私淑。特に筆線のみによる白描画を好み,大正15(1926)年第7回帝展に「離騒」(個人蔵)を出品した。この間,大正5年自由な研究と個性の発露を標榜して結成された金鈴社に参加,毎回出品したが,基本的に寡作だった。雑誌『中央美術』の編集同人をつとめ,著述も少なくない。

(佐藤道信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

大辞林 第三版の解説

きっかわれいか【吉川霊華】

1875~1929) 日本画家。東京生まれ。本名、準ひとし。浮世絵・狩野派などを学ぶ。また、冷泉為恭ためちかに私淑。端麗な描線を以て気品に満ちた大和絵を描いた。代表作「離騒」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

吉川霊華
きっかわれいか
(1875―1929)

日本画家。東京に生まれる。名は準(ひとし)、通称三郎。15歳のころ狩野良信(かのうよしのぶ)について狩野派を学び、1892年(明治25)には土佐派の山名貫義(つらよし)に師事した。また早くから故実の研究にも力を注いだ。1901年(明治34)に『笠置(かさぎ)潜幸』が日本美術協会展に入選、その後烏合会(うごうかい)、金鈴社の運動に加わる。22年(大正11)からしばしば帝展審査員に任じられたが出品はせず、26年の第7回帝展にようやく『離騒(りそう)』を出品、大きな反響をよんだ。日本や中国の古典に取材した端麗な作品を残している。また書家としても和様の格調高い書風で知られる。代表作は『離騒』のほか『赫耶姫(かぐやひめ)』など。京都方広寺の天井画『龍』もよく知られている。[原田 実]
『河北倫明・市田儀一郎解説『吉川霊華画集』(1979・集英社)』

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世界大百科事典内の吉川霊華の言及

【復古大和絵派】より

…為恭が平安時代の障子絵を想像復元(大樹寺襖絵)するなど,古典に対する知的興味の先行も指摘できるが,《古今著聞集》などに取材した新しい主題をつくった積極面が評価される。明治期の菊池容斎(ようさい),小堀鞆音(ともと)(1864‐1931),吉川霊華(きつかわれいか)(1875‐1929),松岡映丘(えいきゆう)(1881‐1938)らの歴史画の先駆となった。やまと絵【鈴木 広之】。…

【明治・大正時代美術】より

…しかしそれにもかかわらず,依然として保守的なマンネリズムを続けていたため,それが特に目立つ日本画部に革新の声があがった。1916年,東京の鏑木清方,吉川霊華(きつかわれいか)(1875‐1925),結城素明,平福百穂,松岡映丘と,美術雑誌《中央美術》(1915‐36)の主宰者田口掬汀(1875‐1943)が金鈴社を結成して改革を求めた。これに続いて18年には,京都市立絵画専門学校での竹内栖鳳門下から,土田麦遷,村上華岳,榊原紫峰,小野竹喬,野長瀬晩花(のながせばんか)(1889‐1964)の5名が,栖鳳と中井宗太郎を顧問に国画創作協会を結成して独立し,後期印象派への関心のうちに,清新な作品を生み出すことになる。…

※「吉川霊華」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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