吉川霊華(読み)キッカワレイカ

デジタル大辞泉 「吉川霊華」の意味・読み・例文・類語

きっかわ‐れいか〔キツかはレイクワ〕【吉川霊華】

[1875~1929]日本画家。東京の生まれ。本名、ひとし狩野派土佐派を学び、のち冷泉為恭れいぜいためちかに私淑して大和絵研究白描画を得意とした。代表作離騒」。

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精選版 日本国語大辞典 「吉川霊華」の意味・読み・例文・類語

きっかわ‐れいか【吉川霊華】

  1. 日本画家。本名準。東京に生まれる。狩野良信橋本雅邦師事し、洋画や大和絵の技法修得。帝展審査員。和漢の伝説、詩文に題をとり、線描を生かした優雅典麗な作品が多い。代表作に「離騒図」など。明治八~昭和四年(一八七五‐一九二九

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20世紀日本人名事典 「吉川霊華」の解説

吉川 霊華
キッカワ レイカ

明治〜昭和期の日本画家



生年
明治8年5月4日(1875年)

没年
昭和4(1929)年3月25日

出生地
東京・湯島天神町

本名
吉川 準(キッカワ ヒトシ)

別名
通称=三郎,別号=延景,半谷,瑞香堂

経歴
儒者吉川澹斎の第三子で、幼時から画筆に親しむ。明治16年浮世絵画家橋本周延の門に入り、のち狩野派を学ぶ。25年松原佐久に有職故実山名貫義に土佐派を学び、復古大和絵の画家冷泉為恭に深く私淑し生涯を通じて大きな影響を受ける。一時、橋本雅邦にも師事。また不同舎で洋画も学び、大和絵風に創意を加えた独自の画境を開拓。中国・日本の古代伝承などにモチーフを求め、端麗な白描の作品を発表した。44年文展で褒状を受賞。大正5年鏑木清方らと金鈴社を興し、12年帝展審査員となる。出世作は「菩提達磨図」、代表作に「離騒」など。一方、建築家としても知られ、著書に「歴史風俗画講義総説」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉川霊華」の意味・わかりやすい解説

吉川霊華
きっかわれいか
(1875―1929)

日本画家。東京に生まれる。名は準(ひとし)、通称三郎。15歳のころ狩野良信(かのうよしのぶ)について狩野派を学び、1892年(明治25)には土佐派の山名貫義(つらよし)に師事した。また早くから故実の研究にも力を注いだ。1901年(明治34)に『笠置(かさぎ)潜幸』が日本美術協会展に入選、その後烏合会(うごうかい)、金鈴社の運動に加わる。22年(大正11)からしばしば帝展審査員に任じられたが出品はせず、26年の第7回帝展にようやく『離騒(りそう)』を出品、大きな反響をよんだ。日本や中国の古典に取材した端麗な作品を残している。また書家としても和様の格調高い書風で知られる。代表作は『離騒』のほか『赫耶姫(かぐやひめ)』など。京都方広寺の天井画『龍』もよく知られている。

[原田 実]

『河北倫明・市田儀一郎解説『吉川霊華画集』(1979・集英社)』

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百科事典マイペディア 「吉川霊華」の意味・わかりやすい解説

吉川霊華【きっかわれいか】

日本画家。東京生れ。本名準(ひとし)。大和絵に共鳴,漢魏六朝の画風も研究して独自の画風を確立。古典に学んだ描線による作品は品格が高い。出品歴わずかにして帝展審査員に推された。1905年結城素明鏑木清方らと金鈴社結成。代表作《離騒》《菩提達磨》など。

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朝日日本歴史人物事典 「吉川霊華」の解説

吉川霊華

没年:昭和4.3.25(1929)
生年:明治8.5.4(1875)
明治大正期の日本画家。東京湯島生まれ。本名準。父は儒者。初め浮世絵,次いで狩野派を学んだのち,明治25(1892)年から松原佐久に有職故実,山名貫義に住吉派を学ぶ。36年烏合会,歴史風俗画会に参加,歴史画研究にも励んだが,幕末の復古大和絵の画家冷泉為恭に深く私淑。特に筆線のみによる白描画を好み,大正15(1926)年第7回帝展に「離騒」(個人蔵)を出品した。この間,大正5年自由な研究と個性の発露を標榜して結成された金鈴社に参加,毎回出品したが,基本的に寡作だった。雑誌『中央美術』の編集同人をつとめ,著述も少なくない。

(佐藤道信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉川霊華」の解説

吉川霊華 きっかわ-れいか

1875-1929 明治-大正時代の日本画家。
明治8年5月4日生まれ。浮世絵や狩野(かのう)派,土佐派をまなび,のち復古大和絵を研究。大正5年鏑木清方(かぶらき-きよかた)らと金鈴社をおこす。15年帝展に「離騒」を出品,白描画風の線が反響をよんだ。昭和4年3月25日死去。55歳。東京出身。本名は準(ひとし)。作品はほかに「菩提達磨(ぼだいだるま)」「赫耶姫(かぐやひめ)」。

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367日誕生日大事典 「吉川霊華」の解説

吉川 霊華 (きっかわ れいか)

生年月日:1875年5月4日
明治時代-昭和時代の日本画家
1929年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の吉川霊華の言及

【復古大和絵派】より

…為恭が平安時代の障子絵を想像復元(大樹寺襖絵)するなど,古典に対する知的興味の先行も指摘できるが,《古今著聞集》などに取材した新しい主題をつくった積極面が評価される。明治期の菊池容斎(ようさい),小堀鞆音(ともと)(1864‐1931),吉川霊華(きつかわれいか)(1875‐1929),松岡映丘(えいきゆう)(1881‐1938)らの歴史画の先駆となった。やまと絵【鈴木 広之】。…

【明治・大正時代美術】より

…しかしそれにもかかわらず,依然として保守的なマンネリズムを続けていたため,それが特に目立つ日本画部に革新の声があがった。1916年,東京の鏑木清方,吉川霊華(きつかわれいか)(1875‐1925),結城素明,平福百穂,松岡映丘と,美術雑誌《中央美術》(1915‐36)の主宰者田口掬汀(1875‐1943)が金鈴社を結成して改革を求めた。これに続いて18年には,京都市立絵画専門学校での竹内栖鳳門下から,土田麦遷,村上華岳,榊原紫峰,小野竹喬,野長瀬晩花(のながせばんか)(1889‐1964)の5名が,栖鳳と中井宗太郎を顧問に国画創作協会を結成して独立し,後期印象派への関心のうちに,清新な作品を生み出すことになる。…

※「吉川霊華」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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