鉢石町(読み)はついしまち

日本歴史地名大系 「鉢石町」の解説

鉢石町
はついしまち

[現在地名]日光市上鉢石町かみはついしまち中鉢石町なかはついしまち下鉢石町しもはついしまち

鳴虫なきむし山北東麓、大谷だいや川南岸にある。北辺中央で南流する稲荷いなり川が大谷川に注ぐ。西は大谷川を挟んで日光山内につこうさんない、東は御幸ごこう町。西から東へ上鉢石町・中鉢石町・下鉢石町の三町が並び、日光街道が南東へ走る。地名は町の北、大谷南岸に、鉢の形をした岩があったことによるとされる(堂社建立記)。古くは坂本さかもとと称されたようで、永正六年(一五〇九)宗長の「東路の津登」には「坂本の人家は数をわかず続きて福地とみゆ。坂本より京鎌倉の町有て市の如し」とあり、門前町としての様相がうかがえる。

元和六年(一六二〇)徳川秀忠により日光山領および東照社領が寄進された際、「一山之衆僧・社家門前」とともに「初石」の居屋敷地子銭も免除された(「日光山領目録」日光山御宮方書物之写)。慶安郷帳では鉢石村とみえ、畑高七五石余。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では鉢石町とあり、高一六八石余。日光街道の終点で鉢石宿とも称された。鉢石町として日光東町に含まれ、宿村大概帳によれば街道関係は宿、地方関係は村、日光惣町に加わる時は町と使い分けていたという。なお宿の形成は正保年間(一六四四―四八)と当町では主張していた(寛政一〇年「旅人止宿出入につき請書」柴田豊久旧蔵文書)。下鉢石北側の大横おおよこ町には八乙女が住していたので、八乙女やおとめ町とも称され、また寛政頃(一七八九―一八〇一)までは日光東火之番屋敷があったので、火之番横ひのばんよこ町などとも称された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報