日光町(読み)につこうまち

日本歴史地名大系 「日光町」の解説

日光町
につこうまち

[現在地名]日光市松原町まつばらちよう石屋町いしやまち御幸町ごこうまち上鉢石町かみはついしまち中鉢石町なかはついしまち下鉢石町しもはついしまち稲荷町いなりまち一―三丁目・本町ほんちよう匠町たくみちよう花石町はないしちよう相生町あいおいちよう東和町とうわちよう

大谷だいや川の段丘上にある。同川の川幅が最も狭まる位置に神橋しんきようが架かり、神橋北岸の山内さんないを挟んで神橋上流左岸の西にし町と同下流右岸のひがし町とに別れる。東町は街並の中央を日光街道が東西に通り、西町は神橋畔を起点とする中禅寺ちゆうぜんじ道が西へ向かう南側に、幾筋かの小路に沿って大半の街並が形成されている。

早くより日光三社権現(現二荒山神社)満願まんがん(現輪王寺)門前として開け、延文六年(一三六一)九月九日の日付をもつ市場祭文(武州古文書)には「下野国日光権現も中市を立たまふ」とあり、門前町が形成され、市が開かれていた。永正六年(一五〇九)日光を訪れた連歌師柴屋軒宗長の「東路の津登」には「坂本の人家は数をわかず続きて福地とみゆ。坂本より京鎌倉の町有て市の如し」と坂本さかもと(現中・下鉢石町)の様子が記される。天正四年(一五七六)相模小田原の宇野藤右衛門尉に「日光町」における「外郎之丸薬」の独占販売が許可された(同年一〇月一三日「座禅院昌忠免許状」相州古文書など)。また中世の日光を描いた日光二荒山之図(万延元年写、東京国立博物館蔵)には、のちの鉢石町および山内・西町付近に商家・民家とおぼしき建物群が描かれ、また中世の日光山の想像図、日光山古図(東照宮蔵)には、現在の二荒山神社前に曲物まげもの町、中山下なかやました(現安川町)には漆師ぬし町などの町名が記され、現在の山内に幾つかの小集落があったことが知られる。天正一八年豊臣秀吉は日光領すべてを没収したが、「当山寺屋敷并門前」などは座禅ざぜん院へと寄進された(「日光山領寄進状」御代々御朱印写)。同所は慶長一四年(一六〇九)徳川家康により安堵された(「徳川家康安堵状」日光山御判物之写)。東照社勧請後の元和六年(一六二〇)徳川秀忠東照宮領寄進状(同書)により「当山衆僧・社家門前」の屋地子銭などがすべて免除された。

近世の日光町は東町には神橋側から上・中・下の鉢石町と、御幸町石屋町松原町が日光街道沿いに並び、その北方に稲荷町がある。西町には上・中・下の本町と大工だいく町・板挽いたひき町・ふくろ町・四軒しけん町・はら町・蓮華石れんげいし町が中禅寺道と大谷川の間にあった(日光山志)。このうち鉢石町と蓮華石町は村として高付されている。このほか史資料類にはうま町や八乙女やおとめ町・鍛冶かじ町・萩垣はんがき町などの名が散見される。馬町は東西両町には含まれない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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