精選版 日本国語大辞典 「石町」の意味・読み・例文・類語 こく‐ちょう‥チャウ【石町】 東京都中央区日本橋本石町の旧名。江戸時代は、三丁目に「時の鐘」や長崎屋という外国人を泊める宿屋があることで知られた。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「石町」の解説 石町こくちよう 栃木県:宇都宮市宇都宮城下石町[現在地名]宇都宮市一番町(いちばんちよう)・二番町(にばんちよう)・三番町(さんばんちよう)北の大(おお)町に並行して東西に通る町人町。東は押切(おしきり)町、南は元石(もとこく)町、西は今小路(いまこうじ)町。正徳元年(一七一一)石町穀問屋から藩に差出した書付(「石町穀座由緒書」青木益治文書)によれば、宇都宮氏時代の永禄年中(一五五八―七〇)より穀類の専売権を認められ、慶長六年から寛文八年(一六六八)の奥平氏時代には、藩主より枡を与えられ商売したと記される。また天保一四年(一八四三)の石町桝頭青木仁兵衛差上書(同文書)には、元和年間(一六一五―二四)の城下町割替に際し、東石(ひがしこく)町(元石町)にあった問屋場を伝馬(でんま)町に移した。 石町こくちよう 茨城県:結城市結城城下石町[現在地名]結城市結城 石町西宮(にしのみや)町の北に位置。御朱印(ごしゆいん)堀内側にあり、文禄年間(一五九二―九六)に結城秀康が建設した町とみられ、穀屋・穀問屋が集住していた。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によれば地子免除地で、町中間数は一町七間。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によれば店借り一二・寺門前六を含む六六軒の家と、番屋一、妙国(みようこく)寺・大泉(だいせん)院(常福寺)・寿桂(じゆけい)庵があり、なかに酒屋二、研鞘師一、医師一、馬医一もあった。 石町こくまち 大阪府:大阪市東区石町[現在地名]東区石町一―二丁目谷(たに)町一丁目の西にあり、大川筋浜通より一筋南の通りを挟む竪町。東部から善安(ぜんなん)筋が南に延び、その西側に高蔵(たかくら)筋・御祓(おはらい)筋が南北に通る。上町(うえまち)台地最北端にあたる北部・西部は急な傾斜地で、文化三年(一八〇六)増修改正摂州大阪地図では当町より北の高蔵筋・御祓筋は大川筋浜通まで石段になっている。町名は明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図にみえる。 石町こくちよう 愛知県:名古屋市東区石町[現在地名]東区泉(いずみ)一丁目京(きよう)町筋、中市場(なかいちば)町の東、碁盤割を出たところにあり、東は小牧(こまき)町に接する。久屋(ひさや)町筋と竪杉(たてすぎ)ノ町筋との間をいう。ただし久屋町筋の東三軒ほどは中市場町の支配(町名起因並町家由緒)。慶長年中(一五九六―一六一五)清須(きよす)(現西春日井郡清洲町)から越したとも(尾張志、市譜)、清須越しでないともいう(蓬左遷府記稿、尾張城南陌名由緒、張藩名所記)。町号の由来についても同様、遷府の際、ここで石垣の石を切ったことにちなむとの説(尾張志、蓬州旧話略)、昔穀物商人が多数居住したことによるとの説(蓬左遷府記稿、名府予録)がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報