錦織郷
にしこおりごう
高時川と姉川の合流地点周辺と両河川に挟まれた地域を中心に広がり、「和名抄」記載の浅井郡錦部郷に由来すると考えられる。南北朝期から室町期にかけては東西に分れていたものと思われる。貞和元年(一三四五)一一月一二日の足利尊氏寄進状(竹生島文書)に「錦織東郷」とみえ、地頭職が竹生島権現に寄進されており、正平八年(一三五三)二月には南朝方の坊門中納言からも祈祷料所として安堵されている(「坊門中納言御教書」同文書)。
錦織郷
にしこおりごう
木曾川左岸の現八百津町錦織を遺称地とする。永正一一年(一五一四)六月一八日の室町幕府奉行人連署奉書(円満院文書)によれば、小泉郷内で、「同郷内錦織村、河上綱場・筏場両関事、於綱場役所(中略)筏場役所」とあり、木材係留機関と編筏流し送り機関とが分立し、綱場使用料(綱役)と木材流通税とをそれぞれ役所で徴収していた。大仙寺の所蔵する文書中に「錦織郷国重半名」がみえる。永享一〇年(一四三八)一一月二〇日「ときのちうをんニよんて」浄金に宛行われ(某名田充行状案)、応仁二年(一四六八)古田民部丞正次が不二庵(大仙寺)に寄進した。
錦織郷
にしこりごう
「和名抄」高山寺本・刊本に「錦織」、東急本に「綿織」とある。倭文川下流域の小盆地を中心とする、現久米郡中央町錦織一帯が郷域と考えられる。「大日本地名辞書」「日本地理志料」は倭文川の支流打穴川流域の明治二二年(一八八九)成立の打穴村、中央町打穴下・打穴中・打穴西・打穴上も当郷域に加える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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