日本歴史地名大系 「錦織村」の解説 錦織村にしこりむら 岡山県:久米郡中央町錦織村[現在地名]中央町錦織倭文(しとり)川の南は下打穴下(しもうたのしも)村、東は高尾(たかお)村(現津山市)、西は戸脇(とわき)村(現久米町)、北は久米川南(くめかわみなみ)村(現同上)のうち大久保(おおくぼ)村で、北端は吉井川に接し、その対岸は院庄(いんのしよう)村(現津山市)。東に低山地があるほかは平地である。「和名抄」久米郡錦織郷の遺称地。錦織神社があり、秦氏の氏神であった。秦氏は渡来人で、仁徳天皇の代に一二七県に秦氏を分け置き、養蚕の業を興し絹を朝貢させたという。美作国の秦氏は秦豊永の子孫が続いた。大塚とよばれる古墳は秦氏の墓といわれ、丘上に高塚大明神と刻んだ碑が建つ。錦織神社の祭神は素盞嗚命など一三神。寛文七年(一六六七)古宮の地より現在の中山の地へ移したという(美作国神社資料)。 錦織村にしこおりむら 滋賀県:大津市中部地域錦織村[現在地名]大津市錦織一―三丁目・二本松(にほんまつ)・松山町(まつやまちよう)・柳(やな)が崎(さき)・桜野町(さくらのちよう)一―二丁目・皇子(おうじ)が丘(おか)一丁目・神宮町(じんぐうちよう)・柳川(やながわ)一―二丁目・鏡(かがみ)が浜(はま)・錦織町山上(やまがみ)村の北にある東西に長い村域で、東は琵琶湖に臨み、西は山城国境。地内に近江大津宮が営まれ、「和名抄」滋賀郡錦部(にしこり)郷の遺称地とされ、藤原仲麻呂の乱で孝謙太上天皇側に味方したという錦部寺は当地付近にあったとされる(「続日本紀」天平神護二年九月六日条)。中世は錦織保などとしてみえ、近世初頭には宇佐山(うさやま)城が重要な役割を果した。 錦織村にしこおりむら 滋賀県:東浅井郡びわ町錦織村[現在地名]びわ町錦織落合(おちあい)村の東、高時(たかとき)川右岸に位置。古代錦織の部民の住した地とする説があり、「和名抄」記載の浅井郡錦部(にしこり)郷の遺称地とされる。「華頂要略」建保二年(一二一四)四月一五日条によれば「錦織里西浦在家」が山門・寺門の抗争の際、焼払われている。また観応二年(一三五一)一〇月には「錦織興福寺」で足利尊氏と直義が対面している(「金子信泰軍忠状写」毛利家文書)。慶長五年(一六〇〇)九月一六日、徳川家康が出した禁制(津里共有文書)には「にしこり村」とある。 錦織村にしこおりむら 岐阜県:加茂郡八百津町錦織村[現在地名]八百津町錦織木曾川中流左岸にあり、可児(かに)郡に属する。南は山を越えて御嵩(みたけ)村(現可児郡御嵩町)、西は伊岐津志(いぎつし)村に接し、北の対岸は加茂郡細目(ほそめ)村のうち黒瀬(くろせ)町・蘆渡(あしど)村・鯉居(こいおり)村。錦織の地名は、大宝二年(七〇二)美濃岐蘇山道を開く際に、この地を錦織中納言久通が開拓したためと伝える。郡上(ぐじよう)郡美並(みなみ)村の星宮(ほしみや)神社蔵の大般若波羅蜜多経の天暦七年(九五三)七月一三日の奥書に「願主錦村主実貫」とあり、絹布を織る技術者集団の存在が考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by