日本歴史地名大系 「長刀鉾町」の解説
長刀鉾町
なぎなたぼこちよう
東西に通る四条通(旧四条大路)両側で、現在も祇園会の中心をなす長刀鉾を出す町である。
平安京の条坊では町の北側が左京四条三坊三保一三町の南、南側は左京五条三坊四保一六町の北にあたる。平安時代中期以降は四条東洞院大路西の地。
永和二年(一三七六)の大山崎住京新加神人被放札注文(大山崎離宮八幡宮文書)によれば、当町には大山崎船橋保に所属する竹夜叉丸という油屋が営業し、応永三二年(一四二五)の酒屋交名(北野天満宮史料)では賢永という酒屋の名がみられる。また、正平七年(一三五二)の「社家記録」には「一、四条東洞院神事所事、尊寿代官深阿来、重々問答、所詮、五百疋可申之由申間、以宮仕取退榊了、吉田肥州口入也」とあり、南北朝時代、当町に祇園御霊会の神事所があった。嘉慶二年(一三八八)頃には、祇園社の御灯料所及び散在敷地があり、古くからの祇園社とのかかわりを示す(祇園社記)。「祇園会山鉾事」(祇園社記)によれば、応仁乱前分として「一、長刀ほく 四条東洞院」とあり、「長刀鉾」を出していたし、明応九年(一五〇〇)に再興された折にも、「一番、ナキナタホコ、四条東洞院トカラス丸トノ間也」と長刀鉾を出している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報