ものごとを協議するために会合すること。人が出会ったり,集まることを寄り合うとか寄合ということは古くからの表現であるが,社会的に重要な意味をもつようになるのは中世以降のことと考えられる。寄合とは原則として同じ資格をもつ者が,同一目的のために集会することをいい,政治の集会,連歌や俳諧など趣味を同じくする人の会合から,惣村,惣町での村人(惣),町衆の集会まで寄合といった。政治史的には朝廷や鎌倉幕府,室町幕府,江戸幕府における,合議のための関係人員の集合を寄合といい,その人員を寄合衆といった。惣村,惣町における寄合には掟があった。近江国蒲生郡得珍保(とくちんのほ)今堀郷の1556年(弘治2)の村寄合で決定された条項の中に〈新座之者,惣並之異(意)見きんせひ事〉とあり,新しく寄合に参加した者が,従来から参加している者と同等の意見を述べることを禁止しているように,座寄合の掟は新参の者の発言に制限を加えている。惣町でも,1587年(天正15)の京都立売組14町の町内連合は,寄合について〈於御寄合等ニ其町内ニ而,可然御仁躰御出したるべき事〉と各町内の寄合出席を義務づけており,今堀郷では1448年(文安5)に〈寄合ふれ二度に出でざる人は,五十文の咎たるべきものなり〉と村寄合出席を厳重に通達している。町(ちよう),村の自治の基礎は寄合での合議,決定にあるから,自治的な秩序を維持するためには,寄合への出席が重視された。寄合への出席を拒否されることは,町衆,村人の権限を停止され,地域共同体から疎外されることを意味する。中世末期から江戸時代を通じて,京都の町内では寄合の際〈町汁(ちようじる)〉といわれる簡単な菜飯が出席者に提供された。寄合は座,一座と表現される場合もあり,集会によって共同意志の確認と運用の機能を果たすのである。
執筆者:仲村 研
近世の都市における寄合
都市における公私の会合は参会ともいわれた。町支配に際し,町奉行や町役人が集まり協議を行うものが公的寄合である。江戸の場合には,複数の町奉行が幕府の評定所に出仕して会合するものを寄合と称したらしい。このため,町奉行どうしが月番の奉行役宅で協議を行うことを〈内寄合〉として区別していた。町々には奉行所に協力し,市中の治安維持にあたる〈手先(下引)〉と称する者がいたが,彼らが情報の収集を行ったり,奉行所からの通達の連絡,容疑者の取調べなどをする会所があった。この会所には市中の茶屋が定められており,〈寄合茶屋〉といわれている。町役人が集まる寄合も必要に応じて開かれた。しかし,しだいにその費用を町人に負担させたり,酒食を出させるような傾向が生じている。たとえば1790年(寛政2)江戸の町名主の取締機関として名主(なぬし),肝煎(きもいり)47名が任命されたが,その申合せに,肝煎仲間の寄合に際しては各自で費用を出し酒菓子などは用いないこと,仲間宅での会合でも茶,タバコのほかは出さないこと,寄合は朝10時に開き,遅くとも午後4時には終了すること,などを定めている。
私的な寄合としては,町人の仲間・組合の寄合がある。これには商人や職人の全体集会もあれば,代表である行事たちの集りもあった。商人や職人仲間の集会は,仲間の結束を固めるとともに,各種規定の改変などのために必要であった。とくに,大工,左官,木挽(こびき)など建築関係の職人たちは〈太子講〉という講の組織のもとで,強い結束を保持していた。太子講の寄合は例年正月ないし2月に行われ,各組別に棟梁たちが集まる場合と,各組の棟梁の全員の集会とがあった。江戸の木挽仲間の例をみると,例年正月22日に各組の全棟梁と年寄が茶屋に集合し,さらに26日に各組別の集会が行われている。前者を〈大寄合〉と呼んでいるが,この集会の重要議題は,その年の挽賃を定めることであった。大寄合で基本方針が決まると各組別の寄合で確認されたのち,棟梁の代表が材木屋大行事の寄合へ出席し,賃上げの要求をしている。寄合は仲間内の紛争の調停や各種の取決めの確認の役割も果たしたのである。寄合に要する費用には座敷代,食事代,茶代,筆墨紙代,ろうそく代,炭代などの経費があるが,会の終了後各自に分割された。江戸の小間物問屋の例にみられるように芸者などを呼ぶ場合もあった。こうした集会の場として,繁華地の水茶屋や料理茶屋が発達した。このほか,江戸では諸大名の江戸屋敷に置かれた留守居役(聞番(ぶんばん))が常時寄合を開き,相互の情報交換を行っている。この費用は多額であり,大名の財政を圧迫するほどであった。このように寄合は,都市においては公私ともに情報交換の場としても重要な意味をもっていた。
執筆者:吉原 健一郎
村の寄合
中世における惣村の発達に伴って,自分たちの集会を寄合と呼び,村落の運営について種々協議し,掟を決めることが盛んになった。近世の村においてもしばしば村寄合は開かれ,自分たちの問題を協議したが,それに加えて名主,庄屋を通して領主側からの命令を言い聞かされ,それに対し順守することを誓う請書を作成することが重要な機能となった。明治以降も市町村の行政の末端部で上意下達の場として,また行政に対する地域の意志をまとめる場として利用されてきた。村落の構成単位は家を基本とするので,寄合は各家より1人ずつ,原則として世帯主の出席によって開催されたが,村落の存亡にかかわるような特別な事項を協議するための寄合のときには,村落の成人男子全員が集まることもあった。
寄合は名主,庄屋あるいは区長などの村役人や役職者の家を会場とすることが多かったが,近畿地方では古くから会所(かいしよ)とか会議所と呼ばれる施設が設けられていた。会所はしばしば村の鎮守の境内にあり,神前でものごとを決める伝統をうかがわせる。寄合と神仏の関係を示す会場としては東海地方の神社境内の庁屋(ちようや)や関東地方の寮(りよう)(仏堂)がある。また寺の本堂が使用されることも少なくなかった。第2次大戦後は公民館が全国的に設置され,寄合もそこで開かれることが一般化した。寄合の席次はその地域の社会構造によってさまざまであるが,家を代表する列席者という考えが強く,家格や家柄意識の強固な所では,家として寄合の席が固定していることが多い。家格の高い家や旧家が上席に座り,分家や新しい転入者が下座に座り,その席次は超世代的に継承される。それに対し,年齢階梯制が顕著に発達している所では,年齢順に着席することが一般化している。近年ではそのような伝統的な座順は不明確になってきており,役職者を中央に,他の者は到着順に任意に座るというのが普通になっている。その場合,上座に座るのは政治的発言権や威信のある者という傾向は見られる。
寄合では役職者の司会で議事が進行し,議論を経たのち結論を出すが,その決定方法については多くが全会一致制をとっている。全会一致といっても,列席者各人に拒否権を認めるような厳密なものではない。司会者が全体の意見をまとめるかたちで結論を出し,それに対し特別に異議を唱える者がなければ全会一致とする形式である。したがって,投票とか挙手という方式はほとんど採用されてこなかった。これは,村落内の対立や矛盾を顕在化させずに,有力者層の意志を全体の意志として決めて地域の平和を維持する方法といえる。しかし,日本の寄合に多数決の議決の伝統がまったくなかったわけではない。惣の掟に〈諸事申合せ候儀,多分に付くべき事〉(近江今堀,1590年)とか〈いかやうにも多分ニ付キ,談合仕るべく候事〉(近江宇治河原,1605年)と表現されているように,多数決が採用されていた。しかし,近世以降は多数決で決定する機会は少なくなり,第2次大戦に至った。近年は住民意識の高まりとともに,寄合においても多数決や投票などの方式が制度化され,実施されることが多くなったが,出席者が各世帯の代表1人で,投票が各世帯1票という原則は相変わらず強固に存続している。
執筆者:福田 アジオ
寄合と文芸
寄合と文芸との結びつきは宗教行事を媒介とするものであろうが,連歌作者の文芸的連帯感と,講衆の宗教的連帯感は相互に深め合ったと考えられる。俳諧の〈座〉も寄合の一種であり,精神共同体としての性格を帯びていた。この性格は,連衆心を尊んだ芭蕉ら蕉風俳諧の座に最も著しい。寄合の語には,このほか次のような狭義の2義がある。(1)独吟に対して,複数の作者が寄り合ってする連歌,俳諧を指す。(2)連歌,俳諧の付物(つけもの)(付詞(つけことば))のうち,梅に鶯,紅葉に鹿のごとく,その関係が詩歌,故事,来歴などによって広く知れわたっていることば。寄合のことばを集めた書に《連珠合璧(れんじゆがつぺき)》などがある。
執筆者:乾 裕幸