平安京
へいあんきょう
794年(延暦13)から始まる日本の古代宮都。山背国(やましろのくに)(山城国)愛宕(おたぎ)・葛野(かどの)両郡にまたがる地(現京都市)に置かれ、形式的には1869年(明治2)の東京奠都(てんと)まで続いた。平安京の営まれる北部山背は、二つの点において注目される地域であった。第一は、地域としての先進性である。桂川(かつらがわ)、賀茂川(かもがわ)(鴨川)、宇治川(うじがわ)、木津川(きづがわ)や、さらにそれらが合流した淀川(よどがわ)が流れており、水上交通の著しく発達した地域であった。陸上交通も同様で、山背道とよばれた北陸道、丹波(たんば)道と称された山陰道が通過していた。交通の利便は、古代宮都の備えるべき必須(ひっす)条件であるから、このような水陸交通の便のよさは平安京造営の原因の一つとなった。第二は、宮都の伝統である。平安京は結果として近代まで宮都であり続けるから、山城国・京都といえば平安京しか思い浮かばないことが多いが、その直前の長岡京はいうまでもなく、それ以前にも継体天皇(けいたいてんのう)の筒城宮(つつきのみや)・弟国宮(おとくにのみや)、聖武天皇(しょうむてんのう)の恭仁京(くにきょう)と、平安京に先行する4宮都をもっていた。この伝統のうえにたっての、平安京造営であった。なお、長岡京が、遷都の翌年に藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件を起こすなど、きわめて不安定な政治状況下で造営が進められたのに対して、平安京の場合は、793年1月に土地調査が行われ、翌年10月に遷都するまで事態はスムーズに運んでいる。
平面形態は、唐(とう)の宮都長安をモデルとして、これに日本独自の特色が加味されて設計された。中軸線をもつこと(左右対称型)、南北方向であること、宮域と京域が分離されていることなどは長安に類似するが、南北が長いこと、大きさは3分の1以下にすぎないことなど相違する点も多い。平安京は東西4.5キロメートル(1508丈)、南北5.3キロメートル(1753丈)を占めた。中央北寄りには宮域(大内裏(だいだいり))が位置し、その東・西・南面に京域が広がっていた。中央には幅84メートル(28丈)の朱雀大路(すざくおおじ)があって、平安京の正門ともいうべき羅城門(らじょうもん)と宮域の入口の朱雀門とを結んでいた。南面には城壁があったようで、これは長安城の四周を巡る羅城を模倣したものであるが、平安京には南側だけにしか築かれなかった。長安のように絶えず異民族の侵入にさらされるという軍事的状況が日本にはなかったからである。一条大路を北限とし、南限の九条大路間に11本の大路、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)を東限として西限の西京極大路間に9本の大路、この合計20本の大路が平安京の主要道路であり、これを基準として無数の小道が縦横に敷かれた。京域は左右の京職(きょうしき)が管轄し、畿内(きない)・七道といった一般行政区画とは異なった特別区とされた。内部は条・坊・保・町に区分され、最小の単位は戸主(へぬし)で、奥行10丈・幅5丈、すなわち30メートル×15メートルであった。戸主の文字が示すように、標準的な一戸の家族の居住地として設定されたものであって、平安京が宅地のみからなるものであったこと、つまり農地をもたない地域であったことを示している。
平安時代中期に至り、平安京は変化する。桂川に近く低湿であった右京が衰退し、左京のみが発達するようになった。さらに一条大路を越えて北野、東京極大路を越えて鴨川周辺へと、新たに市街が展開した。計画された一条・九条・東京極・西京極という規格が崩壊し始めたのである。宮都であるという点ではこれ以後の時代も同様であるが、政治都市としての平安京はここで終わったといえる。
[井上満郎]
『井上満郎著『研究史平安京』(1978・吉川弘文館)』
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へいあん‐きょう ‥キャウ【平安京】
山城国北部(京都市)に設けられた都。
桓武天皇の延暦一三年(
七九四)一〇月二二日、長岡京から遷都し、一一月八日の
詔によって平安京と命名。南北一七五三丈(五・二キロメートル強)を三八町(一町は四〇丈)にくぎり、三九の大路(幅八丈以上)小路(幅四丈)を横に通して、一条から九条までに分け、一条の北にさらに半条の北辺
(きたのべ)を設けた。また、東西一五〇八丈(四・五キロメートル強)を三二町にくぎり縦に三三の大路・小路を通し、中央通の朱雀
(すざく)大路をもって左京(東京)と右京(西京)とに分け、一条から九条までのそれぞれに四坊を設け、大内裏は北部中央の八〇町分を占めた。延暦二四年(
八〇五)、造都は中断して完成をみず、しかも右京ははやく荒廃した。中世には上京、
下京に分けられる京都の町へと変わり、明治二年(
一八六九)の
東京遷都によって、
首都としての役目を終えた。たいらの
みやこ。へいきょう。
平安城。
北都。〔
日本紀略‐延暦一三年(794)一一月八日〕
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平安京
へいあんきょう
桓武天皇の延暦 13 (794) 年から平清盛の福原遷都 (1180) を除いて,明治2 (1869) 年の東京遷都まで 1000年あまりの都。いまの京都市。和気清麻呂の建議により,延暦 12年 (793) 葛野に新都造営を着手,翌年遷都し,新都を平安京と名づけた。唐の長安をまねてつくられ,規模は南北 38町 (約 5.32km) ,東西 32町 (約 4.57km) 。北部中央に宮城 (→大内裏 ) を設け,中央の朱雀大路により,都城は左京 (東京) と右京 (西京) に分けられる。両京とも,縦横に走る道路により碁盤目形に区画され,北は一条から南は九条に及ぶ9条に,東西はそれぞれ一坊から四坊に及ぶ4坊に分けられる。右京はほとんど開発されず,平安時代後期,皇居が大内裏から,左京内の土御門内裏や閑院内裏など里内裏に移ると,左京はますます繁栄した。大内裏は 13世紀廃亡,内野 (うちの) となった。応仁の乱中,大部分は灰燼に帰したが,豊臣秀吉の新都市建設によって今日の京都へと発展した。
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へいあん‐きょう〔‐キヤウ〕【平安京】
桓武天皇の延暦13年(794)から明治2年(1869)東京遷都までの帝都。現在の京都市の中央部。東西約4.5キロ、南北約5.3キロ。中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分し、北部中央に南面して大内裏をおいた。条里の制によって、縦横に大路を通じ、南北を九条、東西を各四坊とし、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画した。現在の京都は、近世初頭、豊臣秀吉によって改造を経たのちに発展したもの。平安。たいらのみやこ。
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平安京
へいあんきょう
平安時代から明治初年まで,千年余の間の帝都
桓武天皇は和気清麻呂の提案によって,山背国葛野 (かどの) 郡の地(現京都市)に新都を造営し,794年長岡京から遷都。規模は南北約5.3km,東西約4.6kmで条坊制を採用した。中央を南北に走る朱雀大路 (すざくおおじ) によって左・右両京に分けたが,右京はあまり発展しなかった。
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平安京
794年に定められた都で、現在の京都市の中心部にあたります。権力者は時代によって別の場所にいましたが、形の上では明治時代に東京に首都がうつるまで、日本の首都でした。
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へいあんきょう【平安京】
9世紀の末,桓武天皇によって山背(城)国葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)両郡の地につくられた帝都で,1869年(明治2)の東京遷都まで,ほぼ1000年つづいた。
[平安遷都]
784年(延暦3)桓武天皇は平城京を捨てて長岡京を営んだが,造都推進者の藤原種継が暗殺されたことにより,事業に齟齬(そご)を来し,工事は続行されたものの,和気清麻呂の進言もあって,ある時期から放棄に傾いている。そして793年正月,藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ,その報告をまって早速造都に着手した。
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世界大百科事典内の平安京の言及
【京都[市]】より
…市街東縁部には東山の連峰が連なるが,それを越えた東側の山科(やましな)盆地も京都市域に属する。歴史的には794年(延暦13)に建設された平安京が都市としての起源で,平安京は朱雀(すざく)大路を中心に左右両京に分かれていた。低湿な右京(西部)はやがてさびれ,高燥な東部,北部へと発展し,平安京の東縁であった鴨川の東へも早くから市街が広がった。…
【賢憬】より
…784年(延暦3)大僧都となり,桓武天皇の遷都計画に際し,793年藤原小黒麻呂,紀古佐美らとともに山背国葛野郡宇太野に新都の地を相した。これが平安京である。学識深く,かつて大安寺の戒明が唐より請来した《釈摩訶衍論(しやくまかえんろん)》をみずから検勘し,これを偽論と断定している。…
【巷所】より
…平安京の条坊間の街路を宅地・耕地化したものをいう。平安京には幅10mを超える程度の小路から80mを超える朱雀大路にいたるまでさまざまな街路があった。…
【条坊制】より
…長岡京は基本的には平城京の左京・右京各9条4坊を踏襲したらしいが,なお京域は未確認。平安京も左右京それぞれ9条4坊であるが,北に半条分の北辺がつく。1町の規模は道路を除いて1辺40丈(約120m)と固定されたため,1坊は従来よりやや大きくなる。…
【都城】より
…そして東市と西市は,それぞれ東西が1km余,南北は930m弱であった。日本の平城京と平安京のおよそ4倍の面積を有したこの広大な都城に住んだ人口は,およそ100万人と推定されており,この100万人の居住者をもってしても,この広大な都城をうめつくすことは困難だったのであって,城内の南3分の1ほどの地域は,人家も少なくさびしいありさまであったという記録が残されている。 なお,伝統的な都城プランにのっとった明・清時代の北京城内の宮城は,皇城の中央部を占めて紫禁城とよばれ,東西およそ700m,南北約1kmの地に多くの宮,殿が群立し,高い城壁で囲まれていたが,今では故宮博物院として,一般に公開され,北京を訪れる内外の観光客でにぎわっている(故宮)。…
【東市・西市】より
…しかしこの〈市〉が東西にわかれていたか否かは明らかでない。ついで平城京,長岡京,平安京には東西2市が置かれ,東市司・西市司(市司(いちのつかさ))によって管轄されていた(図)。740年(天平12)末の恭仁京(くにきよう)遷都や745年の平城京還都はいずれも東西市の移動を伴っており,紫香楽宮(しがらきのみや)にも市が設けられ,難波京にも難波市が存在した。…
【羅城門】より
…日本古代の都城の南中央門。平安京では《拾芥抄》に〈二重閣九間〉とあって9間3戸の門で,2階だてであったことが知られる。平安京内の朱雀大路の南端にあって,京外との境にたっていた。…
※「平安京」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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