精選版 日本国語大辞典 「酒屋」の意味・読み・例文・類語
さか‐や【酒屋】
さけ‐や【酒屋】
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日本古代における酒造は,禁裏造酒司(さけのつかさ)や神社付属の酒殿において行われ,また各戸においても容易に醸造できたためか,酒屋を商業として営むものは少なかった。《日本霊異記》に酒を水でうすめて売る女が現れてくるのが早い例であろう。《延喜式》記載の平安京の市には酒廛(しゆてん)はない。しかし,鎌倉期には京都では酒屋は無数にあったといわれ,鎌倉では,沽酒(こしゆ)(酒の売買)の禁に関しての幕府の1252年(建長4)の調査で,3万7274個の酒壺があったという。朝廷も幕府の影響を受けて1305年(嘉元3)沽酒の禁を出しているが,それ以前に,酒屋に対しての課税(酒屋役)によって,諸国からの貢納の欠を補おうとする嘆願が,1240年(仁治1)造酒司から出されている。こうした酒屋に対する課税が実現した初見は,1347年(正平2・貞和3)で,新日吉社造営料を洛中と河東の酒屋に課している。もって京都の酒屋が多数に上ったことを示すものである。1425年(応永32),26年の洛中洛外の〈酒屋名簿〉では342軒の酒屋が記載され,麴室さえ兼備するものが50数軒あった。これらの酒屋は日吉社神人など山門関係の従属身分をもっているものが多かった。もっとも著名な酒屋は,柳酒屋,梅酒屋である。前者は,五条坊門西洞院の中興酒屋のことで,酒屋役だけで年額720貫にのぼり,幕府の酒屋役収入の1割を超えた。酒の値は,普通酒が100文別5~7杓に対し,柳酒は3~4杓であった。嵯峨天竜寺境内にあった角倉も著名である。奈良では菩提山寺,中川寺,その他の僧坊で酒造が盛んであったが,奈良町人にも酒屋が多数あった。その他の地方では,天野山金剛寺,近江百済寺,越前豊原寺などの寺院が酒を製造販売した。町人の酒屋としては,西宮,加賀宮越,筑前博多,伊豆江川などが有名で,少しおくれて,近江の坂本,大津,また堺,平野なども見られる。これらは都市的発展をした各地の経済的中心地で,そこに酒屋が発達したさまがうかがえる。
酒の醸造は2月と9月の2回で,2~3石入りの壺を用いた。種類はモロミ酒,濁酒,うすにごり,清酒などで,酒袋による圧搾,灰投入法で清酒が作られた。酒屋は多大な資本を要する関係上,土倉などの金融業務を兼帯している富裕なものが多かった。醸造も酒壺(2~3石入り)20~120個を所持し,30石から300~400石を1年に2度醸造している。しかも1人で酒屋を2軒から3軒所持しているのが,応永ころには京都で14人あった。また請酒屋,小酒屋という小売酒屋が,戦国期には出現し,幕府はこれら請酒屋にも課税している。請酒屋のなかには,地方酒を搬入して小売するものもあり,幕府は京都の酒屋を保護するために,これを禁止した。
執筆者:脇田 晴子 近世の酒屋の発展は,江戸幕府の酒造政策と密接に結びついていた。それは酒造業が幕藩領主経済の存続を左右する米を原料とする加工業であったからである。また米の流通事情が直接領主財政や庶民の生活に大きな影響力をもったからでもある。幕府の酒造政策の特徴は,まず第一に酒造業を城下町をはじめ宿場町,港町などを含めた在郷町に限定し,農民による在方酒造業を禁止した。したがって近世初頭の酒造業は都市産業の性格をもち,城下町などの酒屋を主体とし,農民に対しては質素倹約してもっぱら米作りに精を出し,酒を造ることはもちろん,酒を飲むことすら禁じていた。また米価調節のうえから,幕藩領主の方で米価を一定に保持するため早くから酒造株(鑑札)の制度がとられ,だれでも勝手に酒屋をはじめることができなかった。この酒造株によって,幕府は酒造統制(酒造制限令)を行い,酒屋に対してたえず厳しい規制を強化していた。したがって近世前期の酒屋とは,主として都市の酒屋に限られていた。しかし18世紀前半(享保末年以降)に米価が下落するという事態に直面し,ここに幕初以来の在方酒造業の禁止という祖法を捨て,農村酒造業を積極的に奨励するという政策転換が打ち出された。これを契機に,農村では地主酒屋が酒造業を営むようになった。以後近世後期には商業的農業の展開と農村工業の発展に支えられて,地主制の進展とともに小作米を原料とする地主酒造業が広範に発達していった。一般に酒屋とは,狭義には造酒屋(つくりざかや)をさすが,広義には,造酒屋であって小売を兼業するものから,酒問屋(さかどいや)や小売を専業とするものまでを含めて総称する場合もある。概して灘地方(灘五郷)のような江戸積酒(下り酒)を主とする酒屋は,販売はもっぱら江戸下り酒問屋への依託販売に依存していた。地酒など地方市場では小売酒屋のほかに,卸売を専門とする駄売屋,それに飲酒を専門とする居酒屋もあった。
→酒 →酒造業
執筆者:柚木 学
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「艶容女舞衣」のページをご覧ください。
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酒造業者および酒を販売する者。酒屋は鎌倉・室町時代を通じて増加し,北野神社に属する座衆が酒麹の製造・販売の特権をもち,米の集散地である京都は酒造業の中心であった。地方の「田舎酒」として坂本・奈良・摂津西宮などで酒造が盛んとなった。酒造業は多額の資本を要するため高利貸を兼ねるものが多く,室町幕府はこれに酒屋役・倉役とよぶ多額の営業税を課し,幕府の主要財源とした。江戸時代に入ると伊丹・池田・灘などで大規模酒造業が出現,彼らもまた高利貸を兼ねることが多かった。幕府はこれら酒造業者を酒株によって課税・統制した。明治期に入り政府は酒造税を大幅に上げたが,これに対して全国酒造業者は1882年(明治15)酒屋会議を開いて抗議した。
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…室町時代,おもに金融業者である土倉・酒屋などが,諸人から借り集めた銭。業者はその銭をさらに高利で他に貸し付け利ざやを収めるなど,営業回転資金としていたのであろう。…
…内部に照明を設ける場合が多い。建看板は,江戸時代に店の前の道路に柱を立てて看板を掲げた形式で,欧米の居酒屋看板にもこの形が見られる。絵看板は江戸初期から見世物・劇場に用いられ,今日でも映画館で行われているが,最近アメリカを中心として日本でも,絵に代わって巨大な写真をはる方法が急激に増えている。…
…時代はさかのぼるが,鎌倉時代後期から室町時代初頭にかけて下京に広まる法華宗も,これら商工業者を信徒としてのものであった。また室町時代,有徳人(うとくにん)の代名詞でもあった酒屋も,1425年(応永32),26年の〈酒屋交名(きようみよう)〉には下京に多く見え,さらに梅酒屋(五条烏丸)や柳酒屋(五条坊門西洞院)などの銘酒も下京に位置していた。五条東洞院ほか数ヵ所に傾城屋の発展もみられた。…
…そのため,米価調節の必要からとられたのが酒造制限令である。実施に際しては,酒屋に酒造株札を交付し,そこに表示されている酒造株高(造石高)を基準に,その2分の1造りとか,3分の2造りといった減醸令を布達した。酒造株の制度は,他の諸産業に先行して例外的に1657年(明暦3)に実施された。…
…近江の湖東では,応仁・文明時代ごろを境にして,仕入れ,運送と市の小売は分化し,前者に従事する問屋的商人は商品流通路の独占を主張するに至っている。 商人にはそのほか,借上(かしあげ),土倉などの金融業者や酒屋などが力をもっていた。京都には土倉,酒屋それぞれ300~400に及んでおり,室町幕府の財源となった。…
…室町幕府がその支配下にある酒屋・土倉(どそう)より役銭を徴収するために設けた機関。室町幕府が洛中洛外の酒屋・土倉を一元的に支配するようになったのは1393年(明徳4)と考えられている。…
※「酒屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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