日本歴史地名大系 「長土呂村」の解説 長土呂村ながとろむら 長野県:佐久市長土呂村[現在地名]佐久市長土呂岩村田(いわむらだ)町の西北方平坦地に位置し、北は和田(わだ)・御影新田(みかげしんでん)、西は市村(いちむら)新田・赤岩(あかいわ)の村々に接する。村域の南近津(みなみちかつ)・北近津などからは弥生時代から古墳時代にかけての住居跡や土器類が発掘されており、濁(にごり)川や蟹沢(かんざわ)の自然流によって早くから開発の進んだ地帯とみられる(北佐久郡志)。嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「(一番五月会分)流鏑馬、大井庄内長土呂郷、薩摩五良左衛門尉」とみえ、天正二年(一五七四)の大井文書では大井(おおい)一二郷の脇郷として「長土呂」がある。天和二年(一六八二)幕府領、元禄一六年(一七〇三)より岩村田藩領となる。 長土呂村ながとろむら 福井県:武生市旧今立郡地区長土呂村[現在地名]武生市長土呂町村国(むらくに)山北方の平野にある。土呂とは沢の意で、南の押田(おしだ)村の深田に続く湿田地帯から村名が生じたと思われる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南西(いまなんせい)郡中に「長沢村」として高二七〇・八八石が記される。正保郷帳から現村名となり、田方二五八石余・畠方一二石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by