日本歴史地名大系 「武生市」の解説 武生市たけふし 面積:一八四・九八平方キロ県のほぼ中央に位置し、北から東にかけて丹生郡宮崎(みやざき)村、鯖江市、今立郡今立町・池田(いけだ)町に接し、南は南条郡南条町、西は丹生郡越前(えちぜん)町、南条郡河野(こうの)村。市域は東の今立山地、南の南条山地、西の丹生山地と三方を山に囲まれ、北方のみ開けた武生盆地が主体で、北は福井平野に続く。今立山地から流出する文室(ふむろ)川・鞍谷(くらたに)川、丹生山地からの大虫(おおむし)川・吉野瀬(よしのせ)川はそれぞれ山麓扇状地を形成するが、南の南条山地から北流する日野川の形成する扇状地が最も大きく、武生の主要市街地はその左岸に展開する。なお盆地中に分離沈水した地塊の頂部は村国(むらくに)山・岩内(いわうち)山・茶臼(ちやうす)山・船(ふな)山・岡本(おかもと)山の小丘陵として残り、古代には墳丘として、中世には城郭として利用されたものも多い。この地は北陸道の門戸の位置にあって早くから開け、古代律令制時代には越前の国府が置かれた。催馬楽にも「道の口、武生の国府に我はありと、親には申したべ、心あひの風や、さきむだちや」と歌われる。その後、中世・近世を通じて府中(ふちゆう)町と総称されたが、明治二年(一八六九)一〇月、武生と改称された。明治維新後、府たる地は三府(東京・大阪・京都)のほかは府中の称は改名すべしとの命が出され、やむなく改称したという。〔原始・古代〕縄文・弥生など先史時代の遺物・遺跡の発見はきわめて少なく、味真野五分市(あじまのごぶいち)付近でわずかに縄文土器の散布をみるのみであるが、古墳時代に入ると、その遺物・遺構は数多く確認される。おもなものは八王子山(はちおうじやま)遺跡・岩内山古墳群・味真野古墳群・村国山古墳群・大屋(おおや)古墳・芝原(しばはら)古墳・茶臼山古墳群などである。大和朝廷の勢力圏に入った豪族を中心として農耕文化が繁栄したことを意味するが、これらの多くは、日野川より東、味真野扇状地を含む地域に存在することにも注目される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by