長沢村(読み)ながさわむら

日本歴史地名大系 「長沢村」の解説

長沢村
ながさわむら

[現在地名]増穂町長沢

青柳あおやぎ村・大椚おおくぬぎ村の北に位置し、村の東部でつぼ川と利根とね川が合流する。駿信往還が通り、集落は同往還沿いに形成されている。当村は長沢本村と長沢新町しんまちに二分されるが、その境をなすのはかつて天井川であった利根川で、土塁のように長沢新町と本村を分けていた。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「長沢之善国寺」が載り、善国ぜんこく寺屋敷一八〇坪の坪銭が免除されている。慶長六年(一六〇一)の長沢村検地帳(県立図書館蔵)によると田方二二町四反余・畑方一九町七反余、屋敷地五千一八〇坪・屋敷数五三、うち千手せんじゆ院境内一千二六〇坪と善国寺境内一八〇坪は除地。慶長古高帳によると高四九五石余、幕府領。ほかに若宮領三石一斗余・天神領六斗余。利根川の北にある長沢新町は同一三年頃に小林こばやし村の者が長沢村内の五六石一斗余の荒地に移り住み、渡辺武右衛門が奉行となって六三軒の新町を形成したと伝える(寛永一二―一五年「長沢新町一件史料」内田忠美家文書)

長沢村
ながさわむら

[現在地名]高根町長沢・東井出ひがしいで

八ヶ岳の南麓、標高八五〇―九五〇メートル付近に位置。東は須玉すたま川を隔てて上津金かみつがね(現須玉町)、西は西井出村(現大泉村)、南はつつみ村。地名は渓流が長いところから名付けられたという(甲斐国志)。須玉川沿いの久保長沢くぼながさわ、西の高台上の原長沢はらながさわ(もと高原とも)、枝郷東井出の三集落からなる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)では中田二反余・下田四町三反余・下々田五町一反余、中畑九反余・下畑三町五反余・下々畑一一町八反余、永不作田畑一町六反余、屋敷数二四。慶長古高帳では高一〇八石余、幕府領、ほかに長沢ちようたく寺領一石七斗八升、大明神(船形神社)領二石八斗八升がある。寛文六年(一六六六)の検地帳(県立図書館蔵)では高三四三石余、反別は上田二反余・中田一町三反余・下田六町九反余・下々田一三町一反余、中畑一町九反余・下畑一七町七反余・下々畑六九町余、屋敷数九四。

延享三年(一七四六)の村明細帳(輿水孝家文書)では田方一七三石余・二一町六反余、畑方一六九石余・九一町七反余。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]婦中町長沢

井田いだ川支流の山田やまだ川中流左岸と呉羽山くれはやま丘陵山麓東側に隣接し、北東は羽根はね村、南は山田川を挟んで川原町かわらまち村。「肯泉達録」によれば、長沢村の開拓者とされる貞治古には六治古・村治古・貞治古・羽根治古なる四人の男子がおり、彼らはよく働き子孫・家屋も増加し村々ができた。その間に通じる道をながそ(長沢)とよび、最初から人家のある所を長沢村と称するようになったという。天正九年(一五八一)一〇月九日の神保長住制札(蓮華寺文書)は「長沢蓮華寺」に対して出されている。同一一年三月二〇日の知行方目録(歴代古案)によれば、「長沢分庶子惣領分共ニ」が上杉景勝から水越左馬助に与えられている。

元和四年(一六一八)長沢川の川役が銀子一枚と定められている(「前田利光印判状」若林家文書)

長沢村
ながさわむら

[現在地名]清水町長沢

八幡やはた村の南西に位置する。村域は黄瀬きせ川と狩野かの川の合流点の北東部を占め、黄瀬川を挟んで西は木瀬川きせがわ(現沼津市)、狩野川を挟んで南は徳倉とくら村。東海道が通り、集落はこの往還に沿って発達。以前は智方ちかた神社の北および上之屋敷という所に集落があり、かつては黄瀬川宿の一部をなしていたと考えられる。近世初期に東海道箱根はこね(三島路)の付替え・整備が進むと二八軒が現在地に移住し、往還に面した家並が形成された(修訂駿河国新風土記)。慶応四年(一八六八)の家数改帳(贄川家文書)によると、家数六二のうち五三軒が東海道に面して軒を並べている。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]舟形町長沢

舟形村の東、南西流する最上小国もがみおぐに川流域に位置し、同川沿いに最上小国街道が通る。新田本村鑑は枝郷として内山うちやま・野・羽場はば(幅)大平おおだいら長尾ながお大谷だいやなど一〇ヵ村をあげる。最上小国川に北面して長沢館跡がある。つる館ともいい、館主長沢氏は曾我十郎祐成の子孫と伝える。永禄(一五五八―七〇)末年と推定される四月八日付の土佐林禅棟書状写(秋田藩家蔵文書)によれば、同月三日、禅棟は清水しみず(現大蔵村)へ策略をめぐらせようとしたところ、思いがけず戦闘となり清水城主清水義氏を人質に捕らえた。そこで「号長沢仁」を除く清水氏一族はことごとく土佐林方についたというが、前出長沢氏は長沢館主と考えられる。慶長一六年(一六一一)の某知行状(伊藤文書)に「長沢」とみえ、伊藤半兵衛に与えられている。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]新井市長沢

小出雲おいずも村で北国街道から分岐し、長沢川沿いをたどり、信濃国側の富倉とみくら(標高六八一メートル)を越えて飯山いいやま(現長野県飯山市)に至る飯山道沿いの村。戦国期は北の関田せきだ峠越とともに飯山への主要交通路に位置した。近世初期には富倉村(現飯山市)に飯山藩の口留番所、長沢村に高田藩口留番所が設置された。高田たかだ(現上越市)から一〇里、富倉まで三里半、富倉から飯山までは三里の行程である。寛永元年(一六二四)の申付書(長沢区長文書)によれば「長沢庄屋中」に対し「長沢口、信州堺、女留の儀、先々伊与守殿如被仰付候、其方へ申付候間、堅御番可仕候」とあり、松平忠昌の元和年間(一六一五―二四)に番所が置かれ、番役は百姓番であった。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]宮古市長沢

長沢川の上流、花輪はなわ村の西に位置。北東に流れる長沢川の流域がわずかに開け、三方を山に囲まれる。大久保昔書遺翰(大久保文書)によると、出雲松江の牢人白根氏が貞和元年(一三四五)北上川上流と推定される北川の陣の軍功で閉伊へい郡のうち松山まつやま髪長かみながせきの三郷を得て来住したという。髪長とは長沢村のうち字てらさわ付近の地で、寺の沢の西方山麓には髪長神社があった。のち貞治三年(一三六四)戸川修理之介と境を争って敗れ、髪長の地は閉伊氏(田鎖氏)の所領となる。また折壁おりかべを中心とした一帯は伊豆国の人伊藤駿河の所領であったといわれるが、これもまた室町時代末期、田鎖氏に討たれて滅び、当村は田鎖氏の所領となった(「東奥古伝」県立図書館蔵)

長沢村
ながさわむら

[現在地名]鈴鹿市長沢町

伊船いふな村の北西にあり、御幣おんべ川左岸段丘上の集落である。出郷として北に長沢野田ながさわのだ、東に長沢新田がある。「神鳳鈔」では誤って三重郡の項に「長沢御厨各一石八斗」とあり、河曲かわわ郡の項には「内宮長沢御厨」とある。文明三年(一四七一)この御厨より、伊勢両宮へ御饌米が寄進されていたことは、内宮荒木田氏経より二月六日付仲嶋四郎兵衛に宛て、その不審に答えた書状に「長沢御厨公文村山方寄進両宮御饌米之事、雖御不審之儀候、既両太神宮ニ寄進之事候(下略)」とあるのでわかる。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]飯能市長沢・上長沢かみながさわ

上井上かみいのうえ村の東、高麗こま郡の北西端に位置し、高麗領に属した(風土記稿)。北は入間いるま黒山くろやま(現越生町)、南は高麗川を挟んで秩父郡坂石町分さかいしまちぶん、西は同郡坂元さかもと村・坂石村。地名は当地借屋戸かりやど(現借宿神社)の懸仏(現存せず)の銘に、永正一二年(一五一五)二月吉辰の年紀とともに「高麗郡我野郷之内長沢村」とあったという(風土記稿)

長沢村
ながさわむら

[現在地名]横須賀市長沢

たけ山に続く富士ふじ山の東麓、南流する長沢川沿いに位置する。東は野比のび村、西はたけ村、南は津久井つくい村と海、北は岩戸いわと村に接する。建武二年(一三三五)一〇月二〇日の三浦和田茂実著到状(県史三)に「十月三日、三浦長沢へ為与党人退治、侍所御代官被向候間、馳向了」とあり、高師泰の証判が据えられている。至徳元年(一三八四)には「三浦庄内長沢郷」は宝幢ほうどう鹿王ろくおう(現京都市右京区)領である(同年一一月三日付「官宣旨」同書)

長沢村
ながさわむら

[現在地名]今治市長沢

今治市南部に位置する。南は孫兵衛作まごべえさく、北は桜井さくらい村に接し、西は朝倉南あさくらみなみ村・朝倉北村・朝倉下村(現越智郡朝倉村)の諸村と山をもって限り、東は桜井村の山に境を接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智おち郡の項に「長沢村 日損所、柴山有、林少有」とみえ、村高は五七一石である。寛永一二年(一六三五)以来松山藩に属していたが、明和二年(一七六五)幕府領となり、文化一二年(一八一五)以降は松山藩預となった。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]下田村長沢

笹巻ささまき村の北西にあり、北東は桑切くわきり村。南の大平おおだいら村を経て人面ひとづら峠を越え人面村(現栃尾市)へ続く道と、駒籠こまごみ村を通って杉沢すぎさわ(現見附市)への道が通る。元和五年(一六一九)堀直寄は郷村支配組織の整備をはかり、地方の有力者を大肝煎に任命した。下田郷には一括下田組として三人の大肝煎がおかれ、のちの長沢組にあたる地域には長沢村在住の苅屋藤七が任命された。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]大垣市長沢町・新長沢町しんながさわちよう

中之江なかのえ川右岸の平坦地、大垣輪中の東部に位置し、西は江崎えさき村・いぬふち村。村名は長い沢のある土地を開拓したことに由来するという。天文年間(一五三二―五五)頃、氏家直元は長沢城主であったといわれ、種田某が在城したとも伝える。三塚みつづか城主種田信濃守が伊勢長島で討死した元亀二年(一五七一)以後、その一族が開拓した地という(新修大垣市史)。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高五六六石余。正保郷帳では田高四一六石余・畑高六八石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高六二三石余。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]浜田市長沢町・生湯町うぶゆちよう

浅井あさい村・黒川くろかわ村の北に位置し、東は下府しもこう村、西は日本海。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一九八石余、年貢高は田方八七石余・畑方一二石余。小物成として当村生湯に釣舟役銀三匁が課されていた(同年古田領小物成帳)。享保暦浜田領石高改写(稲垣家文書)では高一四八石余に減少。「郡村誌」によると戸数一六三・寺一、人数八三二、牛八一・馬六、荷船(五〇石未満)一・漁船一〇。当地北端の生湯地区は和泉式部伝説があり、小式部が産湯を使ったところという。また生湯は浦として扱われたこともあった(谷田家文書)。浅井村内のノ浦に接するしりには、享保一六年(一七三一)松原まつばら浦にあった津和野藩の蔵屋敷が移され、津和野藩久佐組・日貫組・波佐組からの貢納物を受入れていた。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]山方町長沢

赤城あかぎ山に発する枇杷びわ川が村内を南流し、四面山に囲まれる。枇杷川に沿って集落が散在し、南は上寺田かみてらだ村。「加藤寛斎随筆」の四郡村名沿革の項には「長沢 古永沢ト書、義公ノ命ニテ長ニ改」と記される。

文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)には「高三百六十三石六斗 此内四十三石五升 荒 定物成三十弐貫五百文 此内弐貫六百文 かゝ里 真崎弥十郎長沢」と記される。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「弐百六拾五石五斗五合 長沢村」とあり、寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)には「永沢村」とみえる。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]天竜市長沢

西藤平にしふじだいら村の西、天竜川の支流西阿多古にしあたご川中流域に位置する。天正一一年(一五八三)三月二五日の大般若経箱銘(竜翔寺蔵)に「豊田郡長沢村長月庵」とみえ、同庵の大般若経が修理されている。江戸時代の領主の変遷は横川よこかわ村と同じ。慶長九年(一六〇四)の阿多古長沢村見地帳(中村家文書)によると永高五貫二三六文。元和五年(一六一九)の阿多古村指出(同文書)によれば永高六貫九二文、うち川成一貫九八文を差引いた年貢を鐚銭と茶三五〇斤・綿二〇〇目で納めた。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]輪島市三井町長沢みいまちながさわ

興徳寺こうとくじ村の南、河原田かわらだ川上流の山間に立地。当村枝村のつむぎと結ぶ長さ三間五尺・幅七尺のつむぎ橋があった(能登志徴)。正保郷帳に村名がみえ、高二四〇石余、田方一一町九反余・畑方四町余。承応三年(一六五四)の村御印の高二四四石余、免五ツ三歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二五七石、免五ツ八歩、小物成は山役一四五匁・苦竹役一匁・漆役二匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。享保一三年(一七二八)の百姓数二〇・人数一四九、牛馬三五、洲衛すえ村で高一二石余を出作していた(「持高人数等書上帳」谷内文書)

長沢村
ながそむら

[現在地名]敦賀市長沢・東洋とうよう

津内つない村の南の平坦地に位置する。貞和二年(一三四六)三月の行豊田地売券(西福寺文書)に「合壱町者字長沢、在越前国(敦)賀津守郷道口之内」とあり、古くは道口みちのくちに属したことが知られ、明応七年(一四九八)一二月一三日付三郎大夫田地売券(永厳寺文書)には「なかさう」「なかさわ」とみえる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高三五〇石余。正保郷帳には村切が行われて田方一九九石余・畠方九斗余と出る。享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書には、庄屋治郎助(持高一一石余)、入木銀六匁、牛馬銀二二匁余、入草銀二八匁余、雉子札一匁、夫役七分、夫米四俵三斗余、外高分七石余、馬足一八疋、牝馬一七、家数三五(うち高持一九・無高一六)、人数一五六とみえ、「敦賀志」は「此村より南、江州海津・大浦・塩津・柳ケ瀬等に至る間を邑俗上宅かみやけ街道と云、日々往還の人馬駱駅とて踵をつげり」と記す。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]近江町長沢

宇賀野うかの村の北、琵琶湖の東岸に位置。村域は東西に狭長で、北国街道が南北に通る。中世には長沢関が設けられ、若宮氏が知行していた(若宮文書)。室町期にはほかに田那部氏・慶増氏・長沢氏らも居住していた(島記録・佐々木南北諸士帳)。京極氏と六角氏との対立抗争のなかで当地は戦略上の要地となり、天文七年(一五三八)九月六角定頼は湖北に軍を進め、当地に本陣を置いている(朽木文書)

長沢村
ながさわむら

[現在地名]志賀町長沢

大島おしま村の北に続く砂丘上の村。ナガソウともいう(能登志徴)。元和二年(一六一六)の高二八八石余、役棟一五(「苦竹運上極」雄谷文書)。正保郷帳では大島村と合せて高付され、同村の出村ともいわれた(能登志徴)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高二四六石、免五ツ二歩、新田高二石、小物成は山役九〇目・苦竹役二匁、鳥役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細の高二五一石、家数三八(うち頭振四)・人数二〇四、馬八、稼は塩焼・苧・猟業・日雇・紬かな。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]津名町長沢

生穂いくほ川の上流、野田尾のたお村の北にあり、津名丘陵山頂に位置する。北ははた(現北淡町)、西は遠田とおだ(現一宮町)。庄屋近藤家の記録によると、釜口かまぐち(現東浦町)の三沢駿河守義円の家来であった近藤与左衛門は、嘉吉の乱に義円とともに参加、義円戦死のあと当地に来て、伊庭惣太夫ほか二名を供に広野山林を伐り開き、康正二年(一四五六)には京都白河、吉野の二社を勧請、諸所より百姓を寄せ集めて長沢村を取立てたと伝える(「生穂町誌草稿」津名町史編集室蔵)

長沢村
ながさわむら

[現在地名]芦北町天月あまつき

球磨川支流の天月川が三日月形に湾曲する川筋にあり、上流は才木さいき村。村名は地形に由来すると思われる。地元では「ながそ」と発音する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。「国誌」は村名を「旧云長竿村」とし、「市野瀬村ノ内」と注記する。佐敷手永に属し、文化一〇年(一八一三)の佐敷手永村々高附帳(熊大図書館蔵)に高八三石四斗余とある。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]今庄町長沢

田倉たくら川の下流南岸にあり、東は馬上免ばじようめ村、西は久喜くき村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「たくり部都部べとべ郷」に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一三六石余・畠方三三石余。天保郷帳では元文・宝暦の大水のため六一石余を減ずる。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領になり、明和元年(一七六四)以降三河国西尾藩領。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]音羽町長沢

赤坂あかさか宿の北西に続く東海道沿いの村。音羽川の上流にあたり、上長沢・中長沢・下長沢の三組に分れていた。文明一六年(一四八四)の門徒次第之事(上宮寺蔵)に「長沢 一箇所 平次□光 図書助」として、長沢に上宮じようぐう(現岡崎市)の末寺道場があったことが知られる。

長禄二年(一四五八)より天正一三年(一五八五)まで松平三河守親則領、同一七年まで今川氏領、天明元年(一七八一)まで幕府領。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]小坂町上向うわむき 長沢

高清水たかしみず川中流右岸に位置し、南は高清水村(現鹿角市)

寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高二〇石二斗余のすべてが蔵入、戸数一三軒でうち五軒は大森おおもりに分存。近世後期の花輪御官所村々郡分高書上帳も高二〇石二斗八升余のすべてが蔵分。

長沢村
ながさわむら

[現在地名]小国町長沢

あら川を挟んで、焼山やけやま村の対岸東方に位置する。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一一五石余、免三ツ、家数九(うち役家三・肝煎一)・人数四九、役木として漆・桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下、修正前の高は一六二石余。上杉領村目録によると高三九七石余、本免一ツ四分六厘六毛。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報