長松日扇(読み)ながまつにっせん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長松日扇」の意味・わかりやすい解説

長松日扇
ながまつにっせん
(1817―1890)

宗教家。本門仏立講開導(ほんもんぶつりゅうこうかいどう)、第一世講有(こうゆう)。号は清風(せいふう)。幼名大路遷二郎(おおじせんじろう)。京都の商家に生まれ、1845年(弘化2)本門法華(ほっけ)の信仰に入り、1848年(嘉永1)得度(とくど)。宗門の現状に絶望して、在家(ざいけ)信者の八品講(はっぽんこう)の運動に関心を深めた。1856年(安政3)讃岐(さぬき)国(香川県)高松に招かれて宗義論争を裁き、八品講の後援者で高松藩主の兄の松平頼該(まつだいらよりかね)(1809―1868)の縁で還俗(げんぞく)し、翌1857年京都で本門仏立講を開いた。1864年(元治1)大津64か寺の訴えで新政府にキリシタンの容疑で取調べを受けた。1872年(明治5)政府の命で「本門仏立講講旨」をつくったが、政府の干渉圧迫はやまず再度にわたり捕らえられた。1878年修行の行軌(ぎょうき)「妙講一座」を制定し、1883年御牧現喜(みまきげんき)(のち日聞。1853―1911)を第二世講有として退隠した。『日扇聖人全集』(本門仏立宗宗務本庁内同全集刊行会)がある。

村上重良 2018年6月19日]

『村上重良著『仏立開導長松日扇』(1976・講談社)』

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朝日日本歴史人物事典 「長松日扇」の解説

長松日扇

没年:明治23.7.17(1890)
生年:文化14.4.1(1817.5.16)
幕末期に日本初の在家仏教教団・本門仏立講(今日の本門仏立宗)を創設した日蓮宗八品派の僧。清風とも。京都の商家に生まれ,若くして書画詩歌儒学国学に通じた町人学者となったが,嘉永1(1848)年に出家。しかし,宗門の現状に失望して安政2(1855)年に還俗。同4年1月,京都で純粋在家講の本門仏立講を創設。明治1(1868)年,切支丹の疑いで捕らえられて再出家を強いられ,翌年には北野の宥清寺(今日の本門仏立宗の本山)を借りて講の活動拠点とした。以後,仏立講は形式的には僧侶寺院を持つ教団へと変化したが,現証利益(現世利益)や民衆主体の平易な宗教実践を重視する在家主義的な性格はかえって強化された。なお,こうした同講の特徴は,のちに台頭した法華系新宗教の活動様式にも大きな影響を与えた。<参考文献>村上重良『仏立開導長松日扇』

(西山茂)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長松日扇」の解説

長松日扇 ながまつ-にっせん

1817-1890 幕末-明治時代の宗教家。
文化14年4月1日生まれ。本門法華宗(ほっけしゅう)教団の腐敗を知って還俗(げんぞく)する。安政4年京都で在家教団本門仏立講(ぶつりゅうこう)をひらき,既成教団を批判。しばしば明治政府の干渉と弾圧をうけた。明治23年7月17日死去。74歳。京都出身。俗名は大路延禎。字(あざな)は士竜。号は清風。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の長松日扇の言及

【本門仏立宗】より

…日蓮系在家仏教教団。1857年(安政4)長松日扇(1817‐90)が創始した本門仏立講に始まる。1947年本門仏立宗となった。…

※「長松日扇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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