長苗代村
ながなわしろむら
八戸城下の北西、馬淵川の下流左岸に広がる沖積地に位置する。東は石堂村、西は尻内村、南は川を隔てて根城村、北は河原木村に接する。当村の南西、根城跡の北西対岸にある二日市は天授二年(一三七六)の南部信光譲状(遠野南部文書)に「此うち二日いちさかいたおハ しやうせう殿 しやうさく殿 しやうけん殿 三人譲なり」とみえる。同六年の藤原行親寄進状(新渡戸文書)には
<資料は省略されています>
とあり、当時悪虫殿とよばれた藤原行親が「御道場」に当村の東の悪虫の水田六反を含む田畑・在家を寄進している。この道場は元和四年(一六一八)の知行目録にみえる道場と推定され、のちの成福寺とみられる。大橋の北の内舟渡は南北朝の頃舟着場として利用された所といい、その頃馬淵川は現流路の北を流れていたという。現在二日市のほかに紺屋町・幕ノ下などの地名が残っており、根城城下の下町は藩政期の当村の南にまで広がっていたとも考えられる。
元和四年の知行目録に「六百九拾五石九斗六升七合 長苗代」「弐百三拾壱石三斗壱合 長苗代二日市」「六拾六石弐斗六升五合 長苗代、売市」「六百拾壱石九斗壱升三合 水口、長苗代」とあり、藩政当初は盛岡藩に属し、根城南部氏に給されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 