日本歴史地名大系 「根城跡」の解説
根城跡
ねじようあと
天正二〇年(一五九二)の諸城破却書上に「一糠部郡之内八戸 平地破却 南部彦治郎持分唐ノ供名代弥十郎」とあり、この頃まで八戸城と称していたものとみられる。八戸家伝記(南部家文書)には「当時国司祝云、是奥塞之根柢也、以可称根城」とあり、建武元年(一三三四)北畠顕家が根城と命名したとあるが、後世の潤色であろう。慶長三年(一五九八)の館持支配帳には「一八戸根城壱万三千石 紋九曜八戸弥六郎」とあるが、八戸弥六郎の襲名は延宝三年(一六七五)没の根城南部氏二二代直義からであるので疑問が残る。元和四年(一六一八)の知行目録に「根城廻」とみえるところから藩政初期に至り、根城と称されたものとみられる。城名については支城に対する本城の意とする説のほかに、当城が破却された後根城南部氏が後の八戸城の地に新邸を築造して移住し、ここより旧城をもとの本拠の意として根城と命名したとする説がある。
築城年代は不明であるが、建武元年南部師行が居城して以来、天正二〇年に破却されるまで根城南部氏の居城であり、その拠点であった。建武元年の多田貞綱書状(遠野南部文書)によれば同年四月師行は北条氏の御内人に連なるとみられる八戸の工藤三郎兵衛尉の跡地を預地としており、建武以前には工藤氏の居城であったものであろう。同年四月以降師行は工藤氏の旧領とともに旧城を接収して居城としたとみられるが、遺構の規模からして、当時から後年の広大な城郭を有していたとは考えがたく、のち徐々に整備拡張されていったものと考えられる。
「三翁昔語」や南部八戸家系(南部家文書)によれば、永禄一〇年(一五六七)城主八戸政栄(根城南部氏一八代)不在の折に
根城跡
ねじようあと
根城の西方にある。
根城跡
ねじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報