青森県南東部の市。2005年3月旧八戸市が南に接する南郷(なんごう)村を編入して成立した。人口23万7615(2010)。
八戸市南部の旧村。旧三戸(さんのへ)郡所属。人口6688(2000)。北上高地北部の丘陵からなり,平たん地は少ない。中心の市野沢は,岩手県軽米(かるまい),九戸(くのへ)を経て奥州街道に至る南部八戸(はちのへ)藩の参勤交代路の要衝であった。東部の階上(はしかみ)町との境界には,久慈街道が通じている。八戸自動車道のインターチェンジがある。稲作は振るわず,タバコが県下一の生産をあげており,近年はシイタケ栽培も盛んである。1979年からは国営八戸平原総合農地開発事業が実施され,灌漑施設を備えた農地の造成が進められるとともに,2003年に世増(よまさり)ダムが建設された。島守の虚空蔵堂では,毎年旧暦4月13日に虚空蔵祭が行われる。
執筆者:佐藤 裕治
八戸市中北部の旧市。1929年市制。人口24万1920(2000)。市域を馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川が貫流して太平洋に注ぐ。市街地は河口付近の沖積地とこれに接する段丘上に発達する。西部を東北本線(東北新幹線の延長に伴い,2002年12月に八戸駅以南の県内分を,10年12月には同駅以北分も青い森鉄道が運営)が通り,八戸駅で分岐した八戸線が海岸部を走り,岩手県久慈市に通じる。1989年には八戸自動車道が開通,2002年12月には東北新幹線盛岡~八戸間が開業し,10年12月に新青森駅まで延長された。是川遺跡(史)をはじめ縄文時代の遺跡や遺物が多く発見されている。鎌倉時代に源頼朝が奥州藤原氏を討ったとき,甲斐国南部荘の逸見三郎光行がその功により,糠部(ぬかのぶ)郡を与えられたと伝える。これが南部氏の始まりとされ,南部氏は三戸に本拠を置き,郡内に一戸(いちのへ)から九戸までの牧を設け軍馬の育成にあたったが,八戸はその一つである。1664年(寛文4)南部直房が八戸に入部して八戸藩2万石の領主となり,以来城下町として発展し,海運による交易も盛んであった。商業地区の旧八戸地区,工業地区の湊,小中野,漁港の鮫の3地区が中心で,工業と漁業が最も活発である。第2次大戦後急速に発展した工業には,鉄鋼,肥料,セメント,食料品,アルコールなどがあり,1964年に新産業都市の指定を受け,港湾施設も整備されて,臨海工業地帯として発展を続け,県全体の36%,県内一の製造品出荷額(1995)をあげている。漁業も三陸沖や北洋漁場をひかえて水揚量が多く,鮫港には魚市場や冷凍工場があり,水産加工業も盛んである。ウミネコの繁殖地蕪(かぶ)島や種差海岸(名)があり,毎年2月中旬には伝統芸能えんぶりが行われる。
執筆者:横山 弘
八戸藩の城下町。1627年(寛永4)に中世以来続いた根城(ねじよう)八戸氏が盛岡南部氏の家臣として遠野に移封後,盛岡藩の直轄地となり城代が置かれた。30年,根城町より三日町,十三日町,廿三日町,新井田町より八日町,十八日町,廿八日町が柏崎城の下に移り,新城下町の町人町が設けられた。64年,南部直房が盛岡藩より分封し八戸藩2万石が創設されるに及んでいっそう整備された。馬淵川および新井田川の河口に位置し,元禄(1688-1704)ころには八戸城下町に隣接する湊,鮫の両浦に屋敷割りが行われ,港町の性格を兼ねてきた。東廻航路の海港となったのは近世初頭で,元和期(1615-24)には海船の建造も行われている。八戸地方の特産物である大豆その他の雑穀,塩,〆粕(しめかす),干鰯(ほしか),魚油,鉄や移入品である絹,木綿,古着類などが集散するのは享保(1716-36)ころからで,江戸など遠隔地との交易が盛んとなり,移出入品の配給を独占した城下の御用達商人が藩経済を支配していた。
執筆者:渡辺 信夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
青森県南東部、太平洋岸にある市。岩手県に源を発する馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川が市域を貫流し、その河口付近の沖積地とそれに続く段丘上に市街地が形成されている。1929年(昭和4)八戸、小中野(こなかの)、湊(みなと)の3町と鮫(さめ)村が合併して市制施行。1942年下長苗代(しもながなわしろ)村、1954年(昭和29)是川(これかわ)村、1955年館(たて)、上長苗代、市川の3村と豊崎(とよさき)村の一部、1958年大館(おおだて)村を編入。2001年(平成13)特例市に指定。2005年三戸(さんのへ)郡南郷村(なんごうむら)を編入。2017年中核市へ移行。JR東北新幹線、八戸線、第三セクター青い森鉄道(旧、JR東北本線)、国道45号、104号、340号、454号、八戸自動車道が通じ、八戸自動車道の八戸ジャンクションで八戸久慈自動車道が分岐する。また八戸港からは苫小牧(とまこまい)港へのフェリーがある。
台地周辺部からは是川石器時代遺跡、長七谷地貝塚(ちょうしちやちかいづか)(ともに国史跡)など縄文期の遺跡や遺物が多く発掘されている。中世は南部氏(なんぶうじ)の支配する糠部(ぬかのぶ)地方の一部で、南部氏は一戸から九戸までの九部(戸)制を採用した。八戸の地名は中世以来のものである。1333年(元弘3・正慶2)南部師行(もろゆき)が多賀城から派遣されて馬淵川右岸に根城(ねじょう)(跡地は国史跡)を築き、根城南部氏(八戸氏)の根拠地とした。1627年(寛永4)根城南部氏は盛岡南部氏により遠野(岩手県)へ移封され、根城には盛岡藩の城代が置かれた。1664年(寛文4)幕府は盛岡藩を分封、南部直房(なおふさ)が八戸藩2万石を領することになり、明治に至った。
市域は旧八戸地区の商業地区、湊・小中野地区の工業地区、鮫地区の漁業港湾地区からなる。大正期までは漁業が中心であったが、1935年に八戸港が重要港湾に指定され、日東化学(現、新菱(しんりょう))などの工場が立地、第二次世界大戦後は鉄鋼、化学、食品、窯業などの工場の建設が相次ぎ、1964年には新産業都市に指定された。工業出荷額は県全体の3分の1を占める。一方、水産業は、三陸沖や北洋漁場を控え、大規模な魚市場や冷凍工場をもち、水揚高は全国有数である。
櫛引八幡宮(くしびきはちまんぐう)には2点の国宝の鎧(よろい)をはじめ文化財が多く、是川縄文館は国宝の「合掌土偶」や是川石器時代遺跡出土品などを展示する。蕪島(かぶしま)のウミネコ繁殖地は国の天然記念物に、蕪島南方の種差海岸(たねさしかいがん)は国の名勝に指定されている。また、2013年には蕪島を含む種差海岸一帯が三陸復興国立公園に指定された。田植踊りの一種「八戸のえんぶり」、7月31日から5日間催される八戸三社大祭の山車行事(だしぎょうじ)は国指定重要無形民俗文化財。面積305.56平方キロメートル、人口22万3415(2020)。
[横山 弘]
なお、八戸三社大祭の山車行事は「山・鉾(ほこ)・屋台行事」(33件のうちの1件)として2016年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録された。また是川石器時代遺跡は2021年(令和3)に「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産(是川石器時代遺跡)として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2022年1月21日]
『『八戸市史』全12巻(1969~1972・八戸市)』
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