長苗代通
ながなわしろどおり
八戸藩の地方行政組織五通の一つ。東は八戸廻、南は名久井通に接し、北と西は盛岡藩領五戸通となる。現在の八戸市の西半分の大部分と三戸郡福地村のごく一部の地域にあたる。設置年代は不詳であるが、「八戸藩史料」は寛文一一年(一六七一)六月「長苗代通代官管下七千七百石」が定められたとする。雑書の承応元年(一六五二)一〇月四日条に「三戸郡尻内村長苗代通」などとあり、盛岡藩時代から通称として使用されていた。代官所はなく、八戸城中で執務に当たった模様である。代官は二名の定員とされていた。当初は長苗代通代官として任命されていたが、宝暦九年(一七五九)頃から名久井通と兼職となり、名久井長苗代通代官として任命された。
八戸藩日記の延宝二年(一六七四)四月二三日条に、長苗代通の検地を秋に延期する旨の記述があり、天和二年(一六八二)九月二八日条には新田検地が行われていることがみえる。貞享元年(一六八四)の陸奥国南部領郷村高辻帳(八戸市立図書館蔵)でみると、管内の村は売市・石堂・川(河)原木・長苗代・尻内・根市・大仏・花崎・矢沢・根城・田面木・櫛引の三戸郡中一二ヵ村で、高は四三三九・八二八石である。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳でも村数は変わらないが、大仏村のうちとして大仏・七崎の二ヵ村、櫛引通村のうちとして櫛引・坂牛・上野および樺木(現三戸郡福地村)の四ヵ村がみえ、高は八〇五九・七〇六石、うち田六二三四・四二二石。天保五年(一八三四)の郷村高辻帳(岩手県史)では高八五一八・三八六石、うち田高六五六二・四八五石となっている。田高は領内各通中最高であったうえ、田の比率も約七七パーセントと高く、領内最大の水田地帯であった。
区域内の通称として馬淵川上流地域の上長苗代通、下流地域の下長苗代通、浅水川右岸から櫛引にかけての地域の櫛引通があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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