長谷部信連(読み)はせべのぶつら

改訂新版 世界大百科事典 「長谷部信連」の意味・わかりやすい解説

長谷部信連 (はせべのぶつら)
生没年:?-1218(建保6)

鎌倉初期の武士清和源氏の流れをくみ,三河国長馬を領した長馬新大夫為連の子。長谷部氏は父祖代々朝廷に仕えた武家で,信連後白河天皇の皇子以仁王近侍した。1180年(治承4)以仁王が反平氏の軍事行動を起こした際の信連の奮戦ぶりは《平家物語》に詳しい。のち土肥実平の推挙を得て鎌倉御家人となり,能登国大屋荘を領し1218年同荘河原田で没した。
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朝日日本歴史人物事典 「長谷部信連」の解説

長谷部信連

没年建保6.10.27(1218.11.16)
生年:生年不詳
平安末期・鎌倉初期の武士。長馬新大夫為連の子。左兵衛尉後白河法皇の皇子以仁王に仕える。治承4(1180)年5月15日,以仁王の平家打倒計画が未然に発覚したときに,ただひとりで討手を迎え撃つ。その様は『平家物語』に詳しい。その後以仁王と共に討死したとする『平家物語』(延慶本他)もあるが,他の『平家物語』や『吾妻鏡』は後日談を記す。六波羅に連行され,伯耆国に流され(あるいはさまよい),のち文治2(1186)年4月,関東御後家人になり,能登国大屋庄の地頭職に命ぜられる。のち出家。当庄河原田で卒す。子孫の長家によって,土地領有を保証する信連戦功の伝承と頼朝の下文が伝えられる。<参考文献>佐伯真一「源頼朝軍記説話・物語」(『説話論集』二)

(櫻井陽子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷部信連」の解説

長谷部信連 はせべ-のぶつら

?-1218 平安後期-鎌倉時代の武士。
以仁(もちひと)王につかえる。治承(じしょう)4年(1180)以仁王の平氏追討計画が発覚すると,王を近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺ににがす。みずからは伯耆(ほうき)(鳥取県)に流されたが,平氏滅亡後,源頼朝より関東御家人にくわえられ,能登(のと)(石川県)大屋荘をあたえられた。建保(けんぽ)6年10月27日死去。享年は一説に72歳。

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世界大百科事典(旧版)内の長谷部信連の言及

【生捕り】より

…《保元物語》にみる強弓の名手源為朝の大島への遠流(おんる),あるいは《平治物語》にみる源頼朝の伊豆への配流などは生虜処流の好例であろう。また以仁王(もちひとおう),源頼政の挙兵に際し,一騎当千の兵として,その奮戦の模様が《平家物語》などに描かれている長谷部信連の場合は,その武勇のゆえに死罪を免れたという。さらに生虜捕縛は武門のならいとはいえ,これをいさぎよしとせず,生捕り後に自害する場合も少なくなかった。…

【長氏】より

…能登の中・近世武家。始祖は長谷部信連(はせべのぶつら)。長の姓は信連の出生地遠江国長邑にちなむといい,また一説には長谷部の略称ともいう。…

※「長谷部信連」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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