門崎村
かんざきむら
[現在地名]川崎村門崎
薄衣村の北にある。東は枯木峠(標高三〇五メートル)・大峰山(三六一・一メートル)、西は石蔵山(三六一メートル)で、中央を砂鉄川が南流、南端で西境を流れてきた北上川に注ぐ。村名の由来については、大野東人が養老年中(七一七―七二四)石蔵山に熊野神社を勧請、当地はその神前にあたるので神前・神崎とよばれ門崎になったともいわれるが未詳。明応八年(一四九九)一二月一三日の薄衣状(奥羽編年史料抄)には門崎城の名がみえる。
正保郷帳では門崎村とあり、田六五貫五七六文・畑三三貫一九〇文、ほかに新田三貫七六〇文があり、水損・松山と注記される。初め砂鉄川西岸の布佐集落は西隣相川村の根岸(現一関市)等を含む布佐村であったが、寛永一九年(一六四二)の検地の折、京ヶ森・石蔵山を境として二分され、当村と相川村に編入されたという。「安永風土記」では田七六貫五〇文・畑四七貫二八六文(うち茶畑三六四文)、うち蔵入五七貫二二七文・給所六六貫一一七文。人頭二二〇(うち給人抱地指引人三・沽却禿五)、家数二一五(うち水呑四・給人地形指引人三)、男六三一・女五五四、馬八三、かっこ舟五。御林一三ヵ所・堤一八ヵ所・堰三五ヵ所がある。代数有之百姓三五人・品替百姓一人、産物として紙大引分檀紙、小名は川崎・布佐、屋敷名八七をあげる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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