川崎村(読み)かわさきむら

日本歴史地名大系 「川崎村」の解説

川崎村
かわさきむら

[現在地名]亀山市川崎町・能褒野のぼの

亀山城の北にあたる。安楽あんらく川北岸に広がる大村で、東は御幣おんべ川流域部となり、集落地の西を八島やしま川が南流、ともに村の南で安楽川に合流する。地内には徳原とくはら古墳群や金瀬かなせ柴崎しばさき赤坂あかさかどうざかなどに古墳が残存し、野登ののぼり山に至る安楽川の北側は「和名抄」に載せる英多あがた(県)郷に比定され、川崎はその中心部と考えられる。字南条みなみじようには式内県主あがたぬし神社の跡と伝える県屋敷があり、村名は近世まで県村ともいった(三国地志)。古代から中世にかけて県郷には英田あがた(吾妻鏡)があり、川崎村もその一部を構成したと思われる。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]池田町川崎

大利おおり村の南、吉野川と祖谷いや川の合流点南に位置し、吉野川対岸は山城やましろ(現山城町)、南は祖谷山。地内三所さんしよう神社蔵の大般若経巻三九〇の奥書に応永一〇年(一四〇三)六月上旬日付で「阿州三好郡太井庄中西郷南河崎大明神通物也」とある。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「川崎」とみえる。慶長二年の分限帳には河崎とあり、一八〇石余が牛田掃部助の知行。正保国絵図には川崎村とみえ、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では高一八〇石余すべてが畑方で、芝山・小はへ山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高三二四石余。宝暦一一年(一七六一)の巡見村々指出(三好郡志)では高三二九石余・物成一〇二石余、家数一九〇・人数五九五、酒屋一、牛五〇。庄屋は惣次。文化八年(一八一一)の棟付帳(正賢寺蔵)では家数一八三・人数六八四、牛一〇〇。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]北区天神橋てんじんばし五―六丁目・西天満にしてんま六丁目・にしき町・池田いけだ町・浪花なにわ町・おうぎ町一―二丁目・野崎のざき町など

大坂三郷の天満郷の北東に隣接した地域で、天満の東部から北部・西部に広がる西成にしなり郡に属し、もとは天満の大部分を占めたが、市中として天満郷が成立したため飛地のような形で分散した。北は国分寺こくぶんじ村・本庄ほんじよう(現大淀区)、西は北野きたの村と天満郷に挟まれて錯綜する。淀川が屈曲して寝屋ねや川と合し、大坂市中に入って大川になる地先であることから川崎の名がついたものであろう。当地は上町うえまち台地を北上し、大川を渡って中津川を越え北摂・西摂に向かう亀山かめやま街道・横関よこぜき街道の途中にあたり、早くから開けた地と考えられる。付近には国分寺があったといわれ、天満郷には天満てんまん(現大阪天満宮)などもあるから古代・中世にも発展していたであろうが、詳細は不明。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]日出町川崎

日出城下・日出村の東に位置し、南と南西は別府湾に面する。標高二〇―四〇メートルの丘陵地帯で金井田かないだ(柿川)が村内を蛇行したのち日出湊に流入する。水田は金井田川の流域と丘陵の谷間に散在し、丘陵上には畑と集落が点在する。なお慶長七年(一六〇二)に完成した日出城は日出湊の西半を城内に取込み、仁王田居におうたいにあった湖沼の干拓により日出城外のほり村と宗行むねゆき村の間の丘陵を掘割ったため塩屋しおや川が湊内に流入するようになり、塩屋川が当村と日出城下・日出村との境界となった。「図跡考」によると、当村は宗行村・橋爪はしづめ村・則次のりつぎ村・辻野尾つじのお村・尾峯おみね村・重宗しげむね村・成行なりゆき村・千儀せんぎ村・平原ひらばる村・小深江こぶかえ村・内野うちの村から構成される。

慶長三年の日出庄指出帳(東京大学史料編纂所謄写本)に千儀・内野・則次・橋爪などの地名はみえるが川崎の名はない。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]伊勢市河崎かわさき一―三丁目

勢田せた川下流域、船江ふなえ村の南にある。川崎の地名は、康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「字河崎畠」、康正三年(一四五七)の畠地売券(光明寺古文書)に「所在度会郡箕曲郷船江河崎字松崎」とみえ、永禄八年(一五六五)の船々聚銭帳(伊勢市大湊支所蔵)に「川崎」と記されている。川崎の船は大湊おおみなとに出入りしていた。

「伊勢名所拾遺集」に山田町の注として「河崎ト云舟着ヲ昔ハ河辺里トマヲシキ勢伊太川ヨリ舟入ナリ」とあり、当地は古来河辺かわべ里といわれた。河辺の地名は天永元年(一一一〇)閏七月一三日の沙弥心覚処分状案(光明寺古文書)に「一処、在箕曲郷河辺村、立屋四宇」と記されている。「勢陽雑記」は「河辺里 近来川崎と云ふと云、人家七百軒」、「伊勢名勝志」は「河辺里 山田河崎ノ地ヲ称ス、今人家櫛比シ船舶輻湊ノ地タリ」、「五鈴遺響」も「河崎 旧名河辺ト云、民家六百五十二宇」と記している。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]鳴門市大麻町川崎おおあさちようかわさき

三俣みつまた村の西の平野部にある。南部をほぼ東に吉野川(現旧吉野川)が貫流し、川の南は新田しんでんとよばれる開発が遅れた地域である。西の川崎渡から北上して板東ばんどう村に至る道、渡場から北岸堤防を市場いちば村に至る道、北部を津慈つじ村境から三俣村に至る道、渡しを南に越して勝瑞しようずい(現藍住町)に至る道がある。中世には勝瑞城下に含まれ、洲崎といったという(郡村誌)。慶長二年(一五九七)の分限帳に河崎とみえ、兵橘領四三六石余とある。同八年徳島藩領となった。正保国絵図には川崎村とあり、高四三三石余。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]長岡市川崎町・川崎一―六丁目・地蔵じぞう一―二丁目・美園みその一―二丁目・干場ほしば一―二丁目・堀金ほりがね一丁目・ゆたか一―二丁目・琴平ことひら一丁目・今朝白けさじろ二―三丁目

長岡町の東方約一キロの平地に開けた集落。西方は長岡町の今朝白町・神田かんだ町・愛宕あたご町などに道が通じ、北は堀金村、東は野崎のざき村・中沢なかざわ村などに通じる道がある。かつてこの地は信濃川の沿岸に位置したという。文明(一四六九―八七)頃の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)には、飯沼弾正左衛門尉分高波たかなみ保のなかに「河崎道場」として本田・増分合計三千二一〇束苅とある。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]鹿本町中川なかがわ

菊池川支流の迫間はざま川・内田うちだ川が合流する北にあり、北は玉名たまな中富なかどみ村、南は合志こうし橋田はしだ(現菊池郡七城町)と接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は玉名郡中富手永に属した。寛永一六年(一六三九)の二冊ある地撫帳によれば田二七町五反七畝余・畑二四町七反三畝余、高六〇五石九斗余、田には前田・池尻・高きし・京ノ坪など約三〇下ケ名、畑には川久保・寺ノ後・舟橋・五反畑など約三五下ケ名がみえ、庄屋以下四三名の本百姓の名がある。

川崎村
かーさちむら

[現在地名]具志川市川崎かわさき

天願ていんぐわん村の西にあり、西は美里んざとう間切池原いちばる(現沖縄市)、南は安慶名あぎなー村。絵図郷村帳に川崎村とある。尚王二三年(一八二六)、当村の池原筑登之や天願筑登之ら一五名は、私財を投じて宇堅うきん伊知与久原いじゆくばるにある白洲に水を引く用水路を築き、水田三千六九七坪を開墾した功により爵位を与えられた(球陽)。「琉球国由来記」ではタカミ嶽・タカミ嶽ノ殿が拝所として記され、安慶名ノロが管轄していた。タカミ嶽ノ殿では稲二祭のとき川崎大屋子が五水・神酒、川崎村百姓中がシロマシ・花米・神酒を供えた。祭が終わると大屋子は安慶名ノロ・居神に昼食をふるまい、穂祭の時は百姓中が同様に昼食をふるまった。一八八〇年(明治一三年)の県統計概表では戸数四〇・人数一六四、一九〇三年の県統計書では士族の戸数三四・人数一九三、平民の戸数一九・人数一一九。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]上福岡市川崎・元福岡もとふくおか一―三丁目・福岡ふくおか三丁目・清見きよみ

福岡村の北にある。北・西・南の三方を新河岸川に囲まれ、村名は武蔵野台地末端の舌状に突出した地形に由来するとされる。川を隔て北は木野目きのめ村、東は古市場ふるいちば(以上現川越市)。小田原衆所領役帳に御家門方の伊勢兵庫頭の知行地として入東につとうの「川崎田嶋内」六貫文がみえる。「田嶋」は江戸時代の南田島みなみたじま(現同上)であろう。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]越谷市北川崎きたかわさき

大杉おおすぎ村の東に位置し、北と東は古利根川で限られる。集落は同川の自然堤防上に散在。寛永六年(一六二九)の大松清浄院領検地帳(清浄院文書)に村名がみえ、清浄しようじよう院領があった。田園簿によると高は田方二五二石余・畑方三二五石余、幕府領。元禄八年(一六九五)検地があり(風土記稿)元禄郷帳では高二九三石余。この高の減少は向畑むこうばたけ村の分離独立によるものとみられる。宝永二年(一七〇五)以後の領主の変遷は下間久里しもまくり村に同じ。享保一一年(一七二六)越ヶ谷宿の助郷に指定されたが、延享元年(一七四四)向畑村とともに助郷免除を道中奉行に願出ている(「西方村旧記」越谷市立図書館蔵)

川崎村
かわさきむら

[現在地名]羽村市川崎・川崎一―四丁目・玉川たまがわ一―二丁目・双葉町ふたばちよう一―三丁目・神明台しんめいだい一―四丁目など

羽村・五ノ神ごのかみ村の南に位置し、西端を多摩川が南東流する。田園簿では高二八〇石余はすべて畑、内訳は幕府領九四石余、旗本油川領一三〇石・同柘植領五五石(合計合わず)、ほかに永三五〇文の野銭を幕府に納める。元禄郷帳では高三六一石余。化政期には幕府領・旗本武田領・同前田領の相給(幕末に至ったとみられる)であった(風土記稿)

川崎村
かわさきむら

[現在地名]八郎潟町川崎

馬場目ばばめ川右岸に位置し、五城目ごじようめ街道に沿う。北は野田のだ(現五城目町)、東は五十目ごじゆうめ(現五城目町)に接する。上川崎かみかわさきの五城目街道道端に康永年号(一三四二―四五)の板碑があり、開村は中世にさかのぼると思われる。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録(秋田家文書)に「弐百七拾弐石七斗弐升九合 川崎村 八幡林村」とある。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)のうち御代官所之帳に「弐百五拾六石壱斗九合 湖東通 川崎村」とみえる。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]玉山村川崎

北上川とまつ川の合流点付近に広がり、東は北上川を隔てて渋民しぶたみ村・芋田いもだ村、西と南は下田しもだ村。正保国絵図に村名がみえ、高六一石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高一三〇石余とあり、七ヵ年平均の免一ツ九分五厘七毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方九二石余・畑方五五石余。元文五年(一七四〇)の沼宮内通絵図(佐藤家蔵)向川崎むかいかわさきとある。「邦内郷村志」では蔵分一三二石余、家数二〇。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]作東町江見えみ

上福原かみふくはら村の北に位置し、山家やまが川と吉野よしの川の合流域に立地する。「東作誌」に江見庄川崎村とあるが、村内地字に江見が記される。出雲往来が通り、江見で吉野川を渡ったものと考えられる(同書)。慶長九年(一六〇四)の検地帳(安東文書)では高三二四石余、検地打出高三九石余。元和一〇年(一六二四)の免状(同文書)では高三二七石余で、新開高三石余となっている。正保郷帳に村名がみえ、田一八五石・畑九九石余。

川崎村
かわさきむら

面積:四二・四八平方キロ

東磐井郡の西方にあり、西は南流する北上川を挟んで一関市・西磐井郡花泉はないずみ町、北は東山ひがしやま町、東は大峰おおみね山などを隔て千厩せんまや町、南は藤沢ふじさわ町。ほぼ中央を西流する千厩川と南流する砂鉄さてつ川は、西端の薄衣うすぎぬ地内で北上川に注ぐ。村域の大部分は山林で耕地は千厩・砂鉄両河川に沿ってわずかに開け、北上川の増水時にはその逆水による水害を受ける。耕地は面積の一割にも満たないものの純農村地帯で、砂鉄川沿いの門崎かんざき地区は野菜の生産地として知られる。産物は葉煙草・花卉などで春繭の早掃地帯としても知られ、りんごは東磐井郡内の名産地である。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]飯能市川崎

平松ひらまつ村の東に位置し、東は下川崎村。村内を中山なかやま村から川越への道が通る。上川崎村ともいい、加治かじ領に属した(風土記稿)。小田原衆所領役帳に他国衆の三田弾正少弼(綱秀)の所領として「廿五貫文高麗郡河崎」とみえる。田園簿には上河崎村とあり、高は田方三九石余・畑方一五石余、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では一一二石余。延享三年(一七四六)の上総久留里藩領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえ、同藩領として幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)

川崎村
かわさきむら

[現在地名]八潮市南川崎みなみかわさき

古利根川(中川)右岸の沖積地に位置し、西は中馬場なかばんば村・大原だいばら村、南は伊勢野いせの村。慶長年間(一五九六―一六一五)と寛永四年(一六二七)に検地を受け、慶長検地分を古領、寛永検地分を新領と称した。田園簿では田方二一三石余・畑方一三七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳に幕府領とみえ、以後古領・新領とも同領として幕末に至る(改革組合取調書など)。天保六年(一八三五)の八条領村鑑(小沢家文書)によると、古領は貞享元年(一六八四)の検地で高二二五石余、反別二七町七反余、新領は寛永四年の検地で高二一一石余、反別は三七町余、当村の用・排水は八条用水組合・古利根川中川筋藻刈組合に所属。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]河辺村川崎

河辺川の支流木菱きびし川の左岸沿いにある半月形の山村。北西はみやたに村、南西は横山よこやま村、北は大瀬おおせ(現内子町)、東は河上かわかみ北平きたひらの両村に接する。「大洲旧記」所引の慶長十四年七ヶ村御年貢割付帳(一六〇九)に「川崎村分 田数八町八段九畝弐拾歩 分米八拾五石七斗五升六合 居屋敷壱段壱畝 分米壱石壱斗(中略)畠数九町壱反二畝拾五歩 分大豆五拾四石弐斗四升八合」とある。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項には「高百四拾壱石壱升四合 川崎村 茅山有」とある。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]大川村川崎

かわ村の東、吉野川北岸にある。本川ほんがわ郷の一村で、宝永三年(一七〇六)の「本川郷風土記」(南路志)によれば東西三五町余南北三二町余で、「惣体土地黒シ、南向南下之所也」と記す。

慶長一六年(一六一一)の本川之内高野村検地帳に「河崎村」とみえ、七筆で四反四八代。うち屋敷一筆のほかは山畠であるが、三筆に「ゐ」とあり、山畠では茶と楮を栽培。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]谷和原村川崎

上小目かみおめ村と加藤かとう村の間に所在。幕府代官伊奈氏による小貝こかい川流域の開発に伴い、寛永一一年(一六三四)筒戸つつど村より分村し、小貝川の河道変更により西岸から東岸になった(筑波郡郷土史)。「寛文朱印留」によれば下総佐倉藩大給松平氏領であったが、享保三年(一七一八)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]成東町川崎

親田おやだ村の北西に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高一一九石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では真行寺組に属し、旗本大河内領。幕末まで同領(旧高旧領取調帳)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一七八石余、家数一八。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]安心院町川崎

尾立おだて村の南、津房つぶさ川上流左岸にあり、津房谷の中央部を占める。南は板場いたば村。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳では河崎村とあり、高二七九石余、人数一〇〇、百姓一九(うち庄屋三)・牢人一、牛一四・馬二。元禄豊前国高帳では川崎村とあり、高一六七石余。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]弥彦村川崎、吉田よしだ水道すいどう

東を西にし川が北へ流れ、南は大戸おおど村。承応元年(一六五二)矢作やはぎ村の百姓によって開発され、貞享二年(一六八五)頃独立したという。元禄郷帳に矢作村枝郷として川崎新田村とみえ、高六六石余。初めは与板藩領に属したらしく、元禄一五年(一七〇二)幕府領となり、享保九年(一七二四)から元文五年(一七四〇)までは新発田藩預所。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]西目町西目 田高たこう

西目川上流、盆地状に広がる水田地帯の南端にあり、東は川を隔てて潟保かたほ村、北は西目村、南西に両前寺りようぜんじ村(現仁賀保にかほ町)に接する。

元和九年(一六二三)以降、本荘藩領。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三五二石と記され、天保郷帳では高三六四石七斗四升七合。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]吉川町川崎

吉川と平等寺びようどうじ川の合流点にあたり、南は天林寺てんりんじ村、西は吉川の川崎橋(鳥越橋)を挟んで鳥越とりごえ村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外九方分川崎村 中」とみえ、本納二六石九斗四升五合・縄高九五石八斗一合、家八軒・二八人とある。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]木更津市下郡しもごおり

市場いちば村の北西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八一石(萩野本は六一石余)。元禄郷帳では高六一石余。元和元年(一六一五)旗本石丸領となり、寛保三年(一七四三)以後石丸領と幕府領(「寛政重修諸家譜」など)

川崎村
かわさきむら

[現在地名]笹神村上山屋かみやまや

山崎やまざき町の西にあり、西は上山屋村、南は金屋かなや村。正保国絵図には「川崎興野」とあり、高四五石余で村上藩領。その後、新発田藩領となり、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では高四五石四斗余とある。

川崎村
かわさきむら

[現在地名]青森市小橋こばし

東は浜松はままつ村、南は左堰ひだりぜき村、北は小橋村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一六六・四三一石、うち田方一五三・三二七石、畑方一三・一〇四石とある。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下である(平山日記)

川崎村
かわさきむら

[現在地名]市原市田淵たぶち

田淵村に隣接する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四九石。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に河崎村とあり、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報