布佐村
ふさむら
[現在地名]我孫子市布佐・布佐平和台一―七丁目・新木野二―三丁目・都・布佐酉町・新々田
新木村の東にあり、北東部は利根川が流れ、村内を成田に至る道が通る。対岸は布川村(現茨城県利根町)で、銚子や鹿島灘方面の鮮魚などを江戸に輸送する河岸が設けられ、そこで陸揚げされ、なま道(松戸道)で松戸河岸まで駄送された。「和名抄」に記す相馬郡布佐郷の遺称地とされる。中世は相馬御厨黒崎郷のうちで、「本土寺過去帳」に延徳五年(明応二年、一四九三)五月六日当地で合戦があり、豊島次郎左衛門が戦死したことが記載される。豊島氏は布川の城主と思われるが未詳。永正一八年(一五二一)八月には布佐の者どもが「金ヨリ市河ニテ打死」しており、小金(現松戸市)の高城氏に属していたことが推測される。元亀三年(一五七二)一月一九日にも「フサニテ」法忍が討死している。当地の字谷ッ山に残る竜崖城跡からは元亨二年(一三二二)七月銘の阿弥陀三尊板碑など三基が、和田前の城跡からも明応九年(一五〇〇)銘の武蔵型板碑が出土し、さらに延命寺に寛正四年(一四六三)銘、勝蔵院に明応期の阿弥陀一尊板碑がそれぞれ現存する。
寛永七年(一六三〇)佐倉藩領の検地では高四二三石余であるが、のち新田検地が繰返され、寛文五年(一六六五)七一石余、同九年五〇二石余、延宝元年(一六七三)九石余、享保一三年(一七二八)二七石余と打出されており、なかでも田二〇町五反余・畑四六町三反余に及んだ寛文九年の開発は、手賀沼から流れ落ちる木下川沿いの干拓地で酉新田(現布佐酉町)と通称された(「湖北村誌」など)。
布佐村
ふさむら
[現在地名]美浦村布佐
木原村の南西に位置する。中世は信太庄に属し、嘉慶元年(一三八七)八月七日の上杉憲定宛行状案(臼田文書)に「常陸国信太庄布作郷事、所宛行也、早守先例、可致沙汰如件」とあり、当郷が上杉憲定によって臼田勘解由左衛門尉に宛行われている。江戸時代は天領で(各村旧高簿)、元禄郷帳の村高は六五四石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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