関根 郡平
セキネ グンペイ
大正・昭和期の海軍少将
- 生年
- 明治19(1886)年8月1日
- 没年
- 昭和39(1964)年8月25日
- 出生地
- 埼玉県
- 学歴〔年〕
- 海兵〔明治42年〕卒,海大〔大正10年〕甲種卒
- 経歴
- 明治42年海軍兵学校を卒業後、「常磐」分隊長となる。大正10年に海軍大学校甲種を卒業し、砲術長として「日進」に配属。14年ブラジル大使館付武官、昭和3年軍令部第3班第5課参謀、6年海軍大学校教官兼軍令部参謀、7年軍事普及部幹事を歴任して10年戦艦「伊勢」艦長に就任、11年には少将に昇った。日本の国際連盟脱退以降は海軍のスポークスマンとして活躍、軍縮条約反対、海軍力増強の立場をとり、東亜新秩序建設・大東亜共栄圏の重要性を主張。著書に「皇国の危機 1936年に備へよ」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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関根郡平
没年:昭和39.8.25(1964)
生年:明治19.8.1(1886)
大正昭和期の海軍軍人。明治42(1909)年海軍兵学校卒。「常磐」の分隊長を務め,大正10(1921)年海軍大学校(甲)卒。同年「日進」砲術長などを経て,14年ブラジル大使館付武官。昭和3(1928)年から軍令部第3班第5課参謀,6年海軍大学校教官兼軍令部参謀,7年軍事普及部幹事。10年「伊勢」艦長となり,11年少将に進む。国際連盟脱退(1933)以降海軍のスポークスマンとして『皇国の危機/1936年に備へよ』などの著書を刊行,軍縮条約に対して海軍の立場を代弁し,海軍力増強の必要や東亜新秩序,大東亜共栄圏の重要性を主張した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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関根郡平 せきね-ぐんぺい
1886-1964 大正-昭和時代前期の軍人。
明治19年8月1日生まれ。海軍にはいり,海軍大学校教官,軍事普及部幹事,伊勢(いせ)艦長となる。昭和11年少将。軍縮条約に反対し「皇国の危機/1936年に備へよ」を刊行した。昭和39年8月25日死去。78歳。埼玉県出身。海軍大学校卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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