陀婦野潟
だぶのかた
放生津潟の東方に位置した。鍛治川が東方から、新堀川が南方から注ぐ。「三州測量図籍」にダブノ潟とみえ、南北二町・東西四町半、文政二年(一八一九)潟の北に長さ一五間の橋が架けられた。潟の北に堀岡新村、南に堀江新村などが位置。中世の放生津潟は現在よりもかなり東方に広がっていたが、近世初期から干拓による新開が行われ、近世中期頃放生津潟の東側に残された所が陀婦野潟になった。干拓は放生津潟中に囲いの堤防を作り、水門をつけ放生津潟から泥を運び埋立てた。寛文五年(一六六五)中野新村領内八石(竹内家文書)、同六年同村二〇石(折橋家文書)、同一一年片口村領内一〇石(片岡家文書)、同一二年古明神村・海老江村領内二〇石(竹内家文書)、延宝二年(一六七四)片口村領内一〇石(片岡家文書)など、寛文から元禄(一六八八―一七〇四)、さらに享保(一七一六―三六)にかけて放生津潟東方の新開が進捗したことが知られる(前掲のほか松屋家文書・朽木家文書など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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