隈川宗雄(読み)クマガワ ムネオ

20世紀日本人名事典 「隈川宗雄」の解説

隈川 宗雄
クマガワ ムネオ

明治・大正期の医化学者 東京帝大医科大学学長。



生年
安政5年10月13日(1858年)

没年
大正7(1918)年4月6日

出生地
陸奥国板倉(福島県)

旧姓(旧名)

別名
幼名=郁次郎

学歴〔年〕
東京大学医学部〔明治16年〕卒

学位〔年〕
医学博士〔明治24年〕

経歴
明治2年東京の医師隈川宗悦養嗣子となる。17年大学御用掛となり、同年ドイツに留学し、ベルリン大学で医化学、生理学、内科学を、ウィルヒョウ研究所で病理学を研究。23年帰国し、東京府駒込病院長に就任。翌年帝大医科大学教授となり医化学講座を担当、日本における医化学の基礎を築く。36年スペインのマドリードで開催の万国医事会議に日本委員として出席。41年帝国学士院会員となり、大正6年東京帝大医科大学長に就任。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「隈川宗雄」の解説

隈川宗雄

没年:大正7.4.6(1918)
生年:安政5.10.13(1858.11.18)
明治大正期の医学者。旧姓は原で,実父は福島藩医原有隣。明治2(1869)年に東京の著名な医師である隈川宗悦の養嗣子となる。16年東大医学部卒業。17年から23年までベルリン大に留学し,内科学を専攻。また,ウィルヒョウ研究所に入り医化学を研究した。23年帰国,同年駒込病院医長および脚気病審査委員に任じられる。24年,帝大医科大教授となり,医化学(現在では生化学・生理学)講座を担当。同年,医学博士の学位を受ける。大正6(1917)年9月,東京帝大医科大学長に就任したが,翌年死去。

(高安伸子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「隈川宗雄」の解説

隈川宗雄 くまがわ-むねお

1858-1918 明治-大正時代の医学者。
安政5年10月13日生まれ。原有隣の次男。隈川宗悦の養子。ドイツに留学し,ベルリン大にまなぶ。明治24年帝国大学医科大学教授となり,医化学講座を担当。大正6年東京帝大医科大学学長。学士院会員。大正7年4月6日死去。61歳。陸奥(むつ)福島出身。東京大学卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「隈川宗雄」の解説

隈川 宗雄 (くまがわ むねお)

生年月日:1858年10月13日
明治時代;大正時代の医学者。東京帝国大学医科大学長
1918年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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