青方村
あおかたむら
現町域の中央部東側に位置する。北部に観音岳・白野山があり、深い入江の青方浦に釣道川が注ぐ。西部に大曾、南西に相河、北西に船崎などがある。俗謡に「青ンなの三昧沖漕ぐ船を引きとめる」とあり、青浦(ナは浦の意)とも称していたらしい。「肥前国風土記」にみえる相子田を青方、または青方湾の相河に比定する説があり、遣唐使の寄港地であったとされる。平家塚と称される板碑群がある。江戸時代は福江藩領の青方掛に属し、のち魚目掛のうちとなる。天正一九年(一五九一)「五島嶋おかた村」の者が伊勢参宮に赴いているが(「御参宮人帳」橋村家文書)、当地の可能性がある。慶長国絵図に「青方」とみえ、高一四五石余。当初は青方村または青方中として広域の村であったが(または総称名でもあった)、のち分立する諸村があり、天保郷帳で青方村と別に記される奈摩村・相川村・船崎村を含んでいた。青方氏は長く当地を拠点にしてきたが、寛永年間(一六二四―四四)の福江直りに伴い福江城下への移住を強いられた青方雅盛は、書を福江藩主に呈するとともに平戸藩主の松浦鎮信を頼って平戸に退去している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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