日本歴史地名大系 「須戸新田」の解説 須戸新田すどしんでん 新潟県:豊栄市須戸新田[現在地名]豊栄市須戸・早通南(はやどおりみなみ)一―三丁目・同五丁目新井郷(にいごう)川右岸に位置し、対岸は太子堂(たいしどう)興野・土地亀(どちがめ)新田。享保一九年(一七三四)の開発と伝えるが、郷帳類に村名がみえない。用水は従来蓮潟(はすがた)村(現北蒲原郡聖籠町)から加治(かじ)川用水を引いていたが、山本丈右衛門による太田(おおた)川・新発田(しばた)川掘替のため、用水引入れが困難となった。同様の状態である下興野(しもごうや)新田が、太田川・新発田川の合流地点から用水路を設置するのに際し、当村も字正尺(しようじやく)から家並裏通(やなみうらどおり)・樋(ひ)ノ内(うち)を通り、村内へ通じる用水路の設置を願出た。 須戸新田すどしんでん 新潟県:三条市須戸新田[現在地名]三条市須戸新田柳場(やなぎば)新田の南に位置する。四ヶ新田開発覚(日野田家文書)によると承応元年(一六五二)に立村。しかし実際に開発の鍬が入れられたのは、佐藤家歴代鑑(佐藤重幸氏文書)によれば慶安年間(一六四八―五二)で、井栗(いぐり)村の地方を佐藤氏や布施氏らが開発した。また開発当初は住居は寝起きばかりの仮屋であったことや、鎮守の諏訪社を勧請したことなどがみえ、開発の艱難辛苦が克明に記される。新発田藩分家の相給村で、溝口宣秋(切梅家)領分は元禄八年(一六九五)幕府領となるが、同年の万覚帳(熊倉家文書)に「須戸村」九九石一斗余がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by