飯能村(読み)はんのうむら

日本歴史地名大系 「飯能村」の解説

飯能村
はんのうむら

[現在地名]飯能市飯能・本町ほんちよう山手町やまてちよう

現飯能市の中央、入間いるま川の谷口に位置し、東は真能寺しんのうじ村・中山なかやま村、西は永田ながた村、南は秩父往還(江戸秩父道)を介して久下分くげぶん村、北は横手よこて(現日高市)中世には加治かじ郷に属し、丹党に属する判乃氏が居を構えていたと伝える。判乃氏は丹党系図(諸家系図纂)に高麗五郎経家の息、加治家季の弟として「某判乃」とみえるが事績は伝わらない。地名は天文一六年(一五四七)一一月一九日の六所宮祭事ニ付参集覚写(野々宮神社文書)に「半能 聖天神主」とみえる。また小字松井戸まついどは、永禄五年(一五六二)五月一九日付で北条氏照が宮寺与七郎に宛てた判物(大江文書)に「一所 弐貫五百文 松井田」とみえ、年欠(寛保―安永年間か)の村明細帳(大河原家文書)には飯能村枝郷として松枝がみえる。戦国期には氏照の支配に属し、独立した集落が形成されていたものと思われる。田園簿に飯能村とみえ、高は田方五六石余・畑方一五一石余、幕府領。ほかに当地の能仁のうにん寺領五石がある。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)元禄郷帳では高三一七石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、ほかに能仁寺領・観音堂領がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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