飾郡(読み)かつしかぐん

日本歴史地名大系 「飾郡」の解説

飾郡
かつしかぐん

旧利根川流域に位置し、台地部と低地部からなる。古代以来下総国に属し、東は同国猿島さしま相馬そうま印旛いんば・千葉の各郡、西は武蔵国埼玉・足立・豊島の各郡、北は下野国都賀つが郡に接し、南部は海(東京湾)に面していた。中世には太日ふとい(現在の江戸川)を境に東岸を葛東かとう、西岸を葛西かさいと称した。近世に入り、利根川河道の変遷に伴い、江戸川以西の葛飾郡が武蔵国に編入され、武蔵・下総に分属した。「万葉集」の用例に葛餝・勝牡鹿・勝鹿・加豆思賀・可都思加とあり、「和名抄」東急本で「加止志加」、名博本は「カトシカ」と訓を付している。なお元和八年(一六二二)飯塚村検地帳では葛鹿とある。江戸時代の武蔵国葛飾郡の郡域は現在の埼玉県北葛飾郡栗橋くりはし町・吉川市・三郷みさと市と北葛飾郡鷲宮わしみや町・杉戸すぎと町・幸手さつて市の大部分、春日部市・北葛飾郡松伏まつぶし町の一部、東京都葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区にあたる。

〔古代〕

「和名抄」所載の郷は度毛とも八島やしま(大島)新居にいい桑原くわはら栗原くりはら・豊島・駅家うまや余戸あまるべからなり、中郡。八島郷は大島おおしま郷の誤記とみられ、正倉院文書中に養老五年(七二一)下総国葛飾郡大島郷戸籍がある。郡名の由来を「下総国旧事考」は「葛繁ニテ、此地武蔵野ノ東ニ在テ、原野広ク、葛ノイト繁リシヨリノ名ナルベシ」としている。高橋氏文に景行天皇が東国を巡狩した時葛飾野に行幸し猟をしたことがみえる。ただし葛飾野がどこにあたるか不詳。葛飾郡に下総国府が置かれ、千葉県側の市川市国府台こうのだいが所在地。葛飾郡家の所在地は未詳であるが、低湿地に占地したとは考えがたく、郡内千葉県側の丘陵上に設置されていたことと思われる。

奈良時代中葉以降に至り相模国から武蔵国を経て下総国に向かう駅路が開削されるようになると、葛飾郡を通過した。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条には下総国駅馬として「井上十疋、浮嶋、河曲各五疋、茜津、於賦各十疋」、伝馬として葛飾郡一〇疋とみえる。井上いかみ以下は駅名であり、同駅は墨書銘土器の出土より下総国府近隣に位置していたとみられる。浮島うきしま河曲かわわ両駅は井上駅と武蔵国境との間の低地帯に設置されていた可能性が考えられる。伝馬一〇疋は通例の五疋の二倍であるが、葛飾郡の低地帯が交通の難所となっていたためとられた措置であろう。「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条にみえる下総国浮島牛牧は浮島駅の近隣地に所在したらしい。「万葉集」巻一四に収める歌「鳰鳥の葛飾早稲を饗すともその愛しきを外に立てめやも」は葛飾地域の水稲耕作農民の生活の情景の一端を和歌にしたもの。


飾郡
かつしかぐん

下総国の西端に置かれた古代以来の郡で、南北に長く延びた郡域であった。東は猿島さしま郡・相馬そうま郡・印旛いんば郡・千葉郡で、南部は江戸湾に臨み、西は武蔵国に接する。郡名の表記は古代には葛餝が多く用いられる。「万葉集」巻三に勝壮鹿・勝鹿、同巻一四では加豆思賀・可都思加などとみえ、豆はヅである。「和名抄」東急本などでは加止志加の訓を付し、「和名抄」名博本や「延喜式」民部省ではカトシカ、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条・同神名帳ではカツシカ、「拾芥抄」ではカトシカ、天文一〇年(一五四一)九月六日の下総十一郡之次第(香取文書)ではカツシカと訓じている。郡域は明らかでないが、古代より現在の埼玉県の江戸川右岸と東京都葛飾区・江戸川区北東部・墨田区北部を含み、江戸初期(寛永期か)に江戸川以西が割かれて武蔵国葛飾郡が成立し、また一部は埼玉郡に編入されている。それ以後の郡域は現東葛飾郡関宿せきやど町・野田市・流山市・柏市・松戸市・鎌ヶ谷市・市川市・浦安市・船橋市にわたり、また埼玉県北葛飾郡吉川よしかわ町、茨城県古河こが市・猿島郡五霞ごか村・同郡総和そうわ町に及んでいる。

〔古代〕

律令期以前、国造の置かれていた記録はないが、江戸川・利根川流域を中心に古墳群の分布を認めることができ、拠点的に有力豪族層の存在していたことを示している。江戸川流域では、五世紀代の主要古墳として円墳河原塚かわらづか古墳(松戸市)があり、六世紀代には下流の国府台こうのだい(市川市)法皇塚ほうおうづか古墳・明戸あけど古墳・弘法寺ぐぼうじ古墳などの前方後円墳が築造されて首長墓域を形成する。また北部の流山市・野田市域にも三本松さんぼんまつ古墳・東深井ひがしふかい古墳群など埴輪を伴う古墳群が出現する。

郡の成立時期は未詳であるが、景行天皇が安房浮島うきしま(現鋸南町)に赴いた際、葛餝野で狩を行ったという伝承がある(高橋氏文)。養老五年(七二一)の下総国葛餝郡大島郷戸籍(正倉院文書)が残り、八世紀初めまでには成立していた。同郷は「和名抄」記載の八島やしま郷であろうとされ、甲和・島俣などの里がみえることから現東京都江戸川区・葛飾区域に比定されている。ほかには度毛とも郷・八島郷・新居にいい郷・桑原くわはら郷・栗原くりはら郷・豊島としま郷、余戸あまるべ(高山寺本に記載なし)駅家こまや(同上)があり、「養老令」戸令定郡条によれば中郡に相当する。遺称地により栗原郷が現船橋市域に比定されるほかは、埼玉県・東京都域にわたって諸説があり確定しがたい。葛飾郡家を現市川市国府台付近に想定する説がある。「延喜式」神名帳には葛餝郡二座並・小としてみえる「茂侶モロ神社」は流山市域など、「意富比イフヒ神社」は船橋市域の同名社に比定されている。


飾郡
かつしかぐん

古代・中世には下総国に属し、承和二年(八三五)六月二九日の太政官符(類聚三代格)に「武蔵下総両国(衍)堺住田河」とあるように、現在の古隅田ふるすみだ川や古利根川など利根川筋を国境線としていたが、江戸時代初期に庄内古しようないふる川の右岸地域が武蔵国に編入され、武蔵国葛飾郡が新設された。その時期は後述のように寛永四―一四年(一六二七―三七)の間とみられ、正保国絵図・田園簿に武蔵国の一郡として登載されている。古代の郡名表記は「葛餝」が多く(「続日本紀」「和名抄」など)、訓は「和名抄」東急本に「加止志加」、名博本に「カトシカ」とあり、「伊呂波字類抄」も「カトシカ」である。ただし「万葉集」には「勝鹿」「勝壮鹿」(巻三)、「可豆思加」(巻一四)と表記されており、古くはカヅシカとよんでいたと思われる。なお「高橋氏文」には「葛餝野」の記載がみられる。江戸時代の郡境はおよそ西は古利根川、東は庄内古川で限られ、南は東京湾に臨んでいた。地形は平坦で東西が短く南北に長い長芋の形をしている。現在の北葛飾郡栗橋くりはし町・吉川よしかわ町・三郷みさと市と北葛飾郡鷲宮わしみや町・杉戸すぎと町・幸手さつて市の大部分、春日部市・北葛飾郡松伏まつぶし町の一部および東京都葛飾区・墨田すみだ区・江東こうとう区・江戸川えどがわ区にあたる。

〔古代〕

「和名抄」高山寺本は度毛とけ八嶋やしま新居にいい桑原くわはら栗原くりはら豊嶋としまの六郷を載せ、東急本はこれに余戸あまるべ馭家うまやの二郷を加える。これらのうち、八嶋は大嶋とみて杉戸町の大島おおじまとする説があるが、葛飾区・江戸川区にあてる説が有力であり、新居も栗橋町にあてる説があるものの葛飾区の新宿にいじゆくに比定する説のほうが妥当であろう。度毛郷が現三郷市にあったと推定されているが(埼玉県史)、他は千葉県域と思われる。また「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月一日条や「延喜式」兵部省にみえる下総国の井上・浮嶋うきしま・河曲三駅のうち浮嶋駅を現鷲宮町の鷲宮わしのみや神社付近ないしは春日部市内に、井上駅を三郷市内に比定する説があるが、確かではない。山海両道を受けたという記載から考えると、利根川旧流路の左岸とすべきであろう。「延喜式」兵部省に載る浮島牛牧を春日部市の牛島うしじま一帯に比定する説もあるが、これも確かではない。

〔中世〕

平安時代末期以降、郡域には下河辺しもこうべ庄・風早かざはや(庄)葛西かさい御厨(現東京都)夏見なつみ(船橋)御厨(現千葉県船橋市)八幡やわた(現同県市川市)八木やぎ(矢木)(現同県流山市)などの庄・郷が成立した。このうち埼玉県域には下河辺庄・風早郷(庄)がかかわる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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