高座郡(読み)こうざぐん

日本歴史地名大系 「高座郡」の解説

高座郡
こうざぐん

面積:一三・二二平方キロ
寒川さむかわ

現在の高座郡は県の中央南部に位置し、北は海老名えびな市、東は藤沢市・さき市、南は茅ヶ崎市に接し、西は相模川(馬入川)を隔てて平塚市と一部厚木市に対する。近世末までの高座郡は、ほぼ西は相模川、北から東はさかい川によって限られ、北は武蔵国、東は鎌倉郡、西は大住おおすみ愛甲あいこう両郡に接し、南は相模湾に面していた。

古代の高座郡は「和名抄」に載せる相模国八郡の一つで、「太加久良」と読む。「日本書紀」天武天皇四年一〇月二〇日条には「高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めり」とある。ほかに「鷹倉」(「残篇風土記」日本地理志料)、「田倉」(弘治二年「座間宿鈴鹿明神社再建棟札」風土記稿)につくる。南北朝期の成立とみられる「拾芥抄」は「高座たかくら郡」と載せる。室町時代には東郡と称されたと思われ、文明二年(一四七〇)二月一一日相模国檀那注文(県史三)に「さかミの国ひかし(か)う□ ちかさき」とみえる。続く小田原北条氏の時代も、鎌倉郡とともに東郡とよばれた。近世には、寛文四年(一六六四)から元禄四年(一六九一)の間、津久井つくい県の数村が当郡下に置かれていた。昭和一五年(一九四〇)の藤沢市以後、次々と市制施行が進み、現在は寒川町のみが残り、面積も旧郡の四・三パーセントにすぎない。

〔原始〕

先土器時代の遺跡は、相模川と境川に挟まれた相模野台地上に多く分布している。月見野つきみの遺跡群(大和市)からは各種の石器類と礫群など豊富な資料を出土し、この時代の研究上に大きく寄与した。縄文時代早期・前期の遺跡は少なく、中期になると急激に増加し各地域にみられるようになる。立体的な装飾文様をもつことで知られている勝坂式土器を出す勝坂かつさか遺跡(相模原市)は中期の代表的な集落跡である。前期の中頃は縄文海進のピークに達した時期で、貝塚が発達する。後期・晩期の遺跡の発見例は少ない。弥生時代の遺跡は海寄りの藤沢市・茅ヶ崎市に多く分布し、約七〇ヵ所確認されているが、寒川町以北では現在までのところ一六ヵ所で調査の事例も少ない。古墳時代になると全地域で遺跡数は増加してくる。県内でも有数な秋葉山あきばやま古墳群(海老名市)や海寄りの大神塚おおじんづか古墳(寒川町)などが造られるようになり、各地に有力者が現れてきたことを知ることができる。奈良・平安時代には、相模国分寺(海老名市)をはじめ、七堂伽藍しちどうがらんと称される下寺尾しもてらおの寺(茅ヶ崎市)などが建てられて、これらの地域での中心地となったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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