日本歴史地名大系 「大庭御厨」の解説
大庭御厨
おおばのみくりや
現藤沢市・
天養元年当時の御厨の境界は、東は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
現藤沢市・
天養元年当時の御厨の境界は、東は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
相模国高座郡大庭郷(神奈川県藤沢市内)にあった伊勢神宮の荘園で,12世紀初めに成立。同国住人鎌倉景政が浮浪人を使って開発し,1117年(永久5)に伊勢神宮に寄進した。大庭郷内の新しい郷の鵠沼郷,殿原郷,香川郷など13郷からなる約95町の田地で,中世には150町といわれる。景政の子孫が本御厨の御厨司,下司職を世襲,孫景忠の時より大庭氏(おおばうじ)を称した。1144年(天養1)若き源義朝は,留守所目代の源頼清と結託,三浦,中村などの自分の郎従と在庁官人を率いて鵠沼郷に乱入して,武力による横暴を働き,神人(じにん)を殺した。これに対し下司景宗は大神宮,太政官に訴えてこれを回避しようとしたが,その訴訟の最中にも侵略はくりかえされた。これは国司の免判によって成立した荘園が,その交代のたびごとに私領でなく公領だと主張されて収公の危険にさらされる不安定なものであった好例であり,《天養記》に詳しい。
執筆者:福田 以久生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
相模(さがみ)国高座(たかくら)郡大庭郷(神奈川県藤沢市)に設定された伊勢(いせ)神宮の御厨(みくりや)。鎌倉権五郎景政(景正)(ごんのごろうかげまさ)が大庭郷内の山野を開発し、1117年(永久5)伊勢神宮に寄進して御厨とした。以後景政の子孫が下司職(げししき)を世襲し、大庭氏を称した。四至(しいし)は東は俣野(またの)川、南は海、西は神郷、北は大牧埼で、田地面積は12世紀中ごろで95町、のちには150町ほどになった。当初は国免地(こくめんち)であったため、絶えず国司による収公の危険にさらされたが、やがて勅免地(ちょくめんち)となって安定した。その直後の1145年(久安1)源義朝(よしとも)は御厨内の鵠沼(くげぬま)郷に乱入して押領を企てたが成功しなかった。この事件のようすは『天養記(てんようき)』によって知られる。
[山本博也]
…相模国大庭御厨(みくりや)を本領とする中世の武家。桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景政の開発・寄進によって成立した大庭御厨は,その子孫が代々現地支配にあたり,景政の孫景忠はとくに大庭を称し大庭氏の祖となる。…
※「大庭御厨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新