高辻修長(読み)タカツジ オサナガ

20世紀日本人名事典 「高辻修長」の解説

高辻 修長
タカツジ オサナガ

江戸時代末期〜大正期の子爵 宮中顧問官;東宮侍従長;明治天皇侍従。



生年
天保11年11月29日(1840年)

没年
大正10(1921)年6月20日

出生地
京都府

別名
幼名=興麿

経歴
生家は公卿で、儒道文筆をもって奉仕し、代々文章博士となる。安政5年少納言、同年侍従を兼ね、万延元年文章博士、文久3年大内記となる。元治元年長州藩士の大挙上京に際し、北小路随光らと共に同藩の嘆願を容れるよう建議、さらに慶応2年中御門経之ら22卿が朝政の改革・征長軍の解兵などを建言した時もこれに参加し、差控を命ぜられた。翌3年許されて出仕し、明治天皇の漢籍の講学をつとめる。明治2〜17年侍従として側近に奉仕、18年子爵。のち明宮(大正天皇)御用掛、東宮亮、皇太后亮兼帝室会計審査官を歴任し、31年東宮侍従長、35年宮中顧問官を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「高辻修長」の解説

高辻修長

没年:大正10.6.20(1921)
生年:天保11.11.29(1840.12.22)
明治時代の華族(旧公家),子爵。京都生まれ。高辻以長と知子の子。高辻家はもともと菅原姓で,漢籍を扱う紀伝道の家。安政5(1858)年少納言に任じ,万延1(1860)年世襲の 文章博士となる。慶応2年(1866)年8月朝政改革・征長軍解兵の建言に加わり差控を命ぜられる。許されてのち,慶応3年6月より明治1(1868)年夏ごろまで明治天皇に漢籍を進講した。2年より17年まで侍従。この間岩倉遣外使節団にも随行した。17年6月明宮(のちの大正天皇)御用掛となり明宮の教育を担当。のち東宮亮,皇太后宮亮,東宮侍従長(30~35年),宮中顧問官等を歴任した。<参考文献>宮内庁『明治天皇紀』

(西川誠)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高辻修長」の解説

高辻修長 たかつじ-おさなが

1840-1921 幕末-大正時代の公卿(くぎょう),華族。
天保(てんぽう)11年11月29日生まれ。明治元年従三位にすすみ,2年天皇の侍従となる。5年外遊中にアメリカ岩倉使節団の随行を命じられ,帰国後ふたたび侍従。のち東宮侍従長,宮中顧問官などを歴任した。子爵。大正10年6月20日死去。82歳。幼名は興麿。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の高辻修長の言及

【高辻家】より

…菅原姓の公家。菅原道真の男大学頭高視の後裔,大学頭是綱(1030‐1107)のときより高辻を家名とした。爾来子孫世襲したが,1580年(天正8)権大納言長雅が没した後,嗣子がなくいったん断絶した。しかし一門の五条為経の次男遂長が入って高辻家を相続し,その息長純の跡には同族の東坊城長維の次男豊長が継承した。公家としての家格は半家。代々大学頭,文章博士となり,将官,弁官を経て権大納言に昇った。江戸時代には家禄200石を給され,儒道,文筆を家業とした。…

※「高辻修長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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