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大正天皇 たいしょうてんのう

美術人名辞典の解説

大正天皇

第百二十三代天皇。明治天皇の第三皇子。母は柳原愛子。幼名は明宮。名は嘉仁。佐々木高行・曽我祐準らの教育を受け、また本居豊穎・川島毅から国書・漢書を学ぶ。九条道孝の四女節子(貞明皇后)と結婚、裕仁親王・雍仁親王・宣仁親王・崇仁親王の四皇子を得た。文学を好み和歌・漢詩を能くした。即位後は健康がすぐれず、専ら療養生活を送り、皇太子裕仁親王が摂政の任についた。在位14年4ヶ月で大正15年(1926)崩御、48才。

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デジタル大辞泉の解説

たいしょう‐てんのう〔タイシヤウテンワウ〕【大正天皇】

[1879~1926]第123代の天皇。在位1912~1926。明治天皇の第3皇子。名は嘉仁(よしひと)。大正10年(1921)病気のため、皇太子裕仁(昭和天皇)を摂政に任じた。

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百科事典マイペディアの解説

大正天皇【たいしょうてんのう】

在位1912年―1926年。明治天皇の第3皇子,母は柳原愛子(なるこ)。名は嘉仁(よしひと)。1889年立太子1900年九条節子(さだこ)と結婚,明治天皇の死とともに践祚(せんそ),大正と改元。
→関連項目昭和天皇貞明皇后三笠宮崇仁

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大正天皇 たいしょうてんのう

1879-1926 第123代天皇。在位1912-26。
明治12年8月31日生まれ。明治天皇の第3皇子。母は柳原愛子(なるこ)。父の死により即位し,大正と改元。在位中は,第一次世界大戦,中国に対しての二十一ヵ条の要求,ロシア革命後のシベリア出兵,国内では護憲運動,天皇機関説論争,関東大震災などがおきた。幼少から健康がすぐれず,大正10年11月皇太子裕仁(ひろひと)(のちの昭和天皇)を摂政とした。皇室としてはじめて一夫一妻制を確立した。大正15年12月25日死去。48歳。墓所は多摩陵(みささぎ)(東京都八王子市)。幼称は明(はるの)宮。諱(いみな)は嘉仁(よしひと)。
【格言など】年どしにわが日の本のさかゆくもいそしむ民のあればなりけり(大正5年歌会始)

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江戸・東京人物辞典の解説

大正天皇

1879〜1926(明治12〜昭和元)【天皇】史上最初の東京生まれの天皇。生まれつき病弱のため、短命に終わる。 在位1912.7.30〜1926.12.25。明治天皇の第三皇子。名は嘉仁(よしひと)。幼称は明宮(はるのみや)。1889年(明治22)皇太子となる。1900年公爵九条道孝の四女節子(さだこ)(貞明皇后)と結婚、この年から地方巡啓として、日本各地を訪問。12年(大正元)7月明治天皇崩御により皇位につき、大正に改元された。幼時から病弱で、一時健康を取り戻したかに見えたが、即位後は再び体調を崩すことが多くなった。1921年皇太子裕仁親王を摂政に任命。1926年12月葉山御用邸で崩御、御陵は八王子の多摩陵。

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世界大百科事典 第2版の解説

たいしょうてんのう【大正天皇】

1879‐1926(明治12‐昭和1)
第123代に数えられる天皇。在位1912‐26年。名は嘉仁(よしひと),称号は明宮(はるのみや)。明治天皇の第3皇子,母は柳原愛子(なるこ)。1889年立太子,1900年九条道孝の四女節子と結婚,12年7月30日明治天皇の死とともに践祚,大正と改元,15年即位の大礼をあげる。このころすでに病弱で脳病が進み,21年11月25日皇太子裕仁親王(昭和天皇)を摂政に立てた。26年11月病状悪化,12月25日葉山で死去。

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大辞林 第三版の解説

たいしょうてんのう【大正天皇】

1879~1926) 第一二三代天皇(在位1912~1926)。名は嘉仁よしひと。明治天皇の第三皇子。1921年(大正10)以後、裕仁ひろひと親王を摂政として政務を執らせた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大正天皇
たいしょうてんのう

[生]1879.8.31. 東京
[没]1926.12.25. 葉山
第 123代天皇 (在位 1912~26) 。名は嘉仁 (よしひと) ,称号は明宮 (はるのみや) 。明治天皇の第3皇子。母は柳原前光の妹権典侍柳原愛子。 1889年立太子,1900年九条道孝4女節子 (さだこ) と結婚。 12年7月 30日践祚。在位 15年の大正時代は,明治の余光のうちに過ぎたという感があるが,この間に日本は帝国主義国として強大になった。そして,同時にその矛盾も露呈してきた。病弱のため,21年 11月以後は,皇太子迪宮 (みちのみや) 裕仁親王 (→昭和天皇 ) を摂政に任じた。陵墓は東京都八王子市長房町の多摩陵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大正天皇
たいしょうてんのう
(1879―1926)

皇統譜にいう第123代天皇(在位1912~26)。明治12年8月31日、明治天皇の第3皇子として誕生。生母は早蕨典侍(さわらびのてんじ)柳原愛子(やなぎはらなるこ)。名は嘉仁(よしひと)、称号は明宮(はるのみや)。幼時は中山忠能(なかやまただやす)・慶子(よしこ)に養育され、1889年(明治22)の誕生日に東宮(とうぐう)宣下があり、同年11月皇太子にたち、陸軍ならびに海軍少尉に任官、1909年(明治42)には同中将にまで累進。1900年、九条道孝(くじょうみちたか)の四女節子(さだこ)(貞明皇后(ていめいこうごう))と結婚、裕仁(ひろひと)(昭和天皇)、雍仁(やすひと)(秩父宮(ちちぶのみや))、宣仁(のぶひと)(高松宮(たかまつのみや))、崇仁(たかひと)(三笠宮(みかさのみや))の4子をあげた。12年7月30日、明治天皇の死により践祚(せんそ)、大正と改元、1915年(大正4)11月即位式を挙行した。生誕まもなく髄膜炎を患い、その後健康を取り戻したが、即位式の翌年ころから健康が優れず、第一次世界大戦期には政務を十分とることができず、1919年以降は帝国議会開院式の出席も取りやめとなった。1921年皇太子裕仁を摂政(せっしょう)に任じた。1926年12月25日死去。多摩陵に葬られた。[由井正臣]
『渡辺幾治郎監修『明治・大正・今上三帝聖徳録』(1933・頌徳会)』

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20世紀日本人名事典の解説

大正天皇
タイショウテンノウ

大正期の第123代天皇



生年
明治12(1879)年8月31日

没年
大正15(1926)年12月25日

出生地
東京

学歴〔年〕
学習院〔明治27年〕退学

経歴
御名嘉仁(よしひと)。明治天皇の第三皇子。御生母は権典侍柳原愛子。御幼少の時の称号明宮(はるのみや)。父天皇の外祖父中山忠能邸で育てられ、土方久元、佐々木高行公らの教育をお受けになり、明治22年立太子礼。33年公爵九条道孝の四女節子(貞明皇后)とご結婚。45年7月30日、明治天皇のご崩御とともに皇位(123代)をご継承、大正と改元。大正4年11月京都でご即位の大礼を挙行。即位後数年でご病気が進み、10年11月25日、皇太子裕仁殿下が摂政に任ぜられた。在位14年4カ月。幼児脳膜炎様の疾患にかかられ、大病の連続であられた。皇太子時代は沖縄を除く全府県を回られ、明治40年には合併前の韓国をご訪問。文才豊かで漢詩に優れ、20数年間に1367首を作られた。大正15年12月25日葉山御用邸で肺炎にかかられ心臓まひでご崩御。多摩陵に葬られる。

出典|日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について | 情報

世界大百科事典内の大正天皇の言及

【セーラー服】より

…20世紀初頭に,海軍御用テーラーのピーター・トムソンがワンピースの通学服にデザインして売り出し,多数の女生徒がこれを着た。日本では欧化熱のさかんな1880年代に上流階級は子どもに洋服を着せ,85年に明宮(はるのみや)(大正天皇)が水兵服を着用したところから一般にも広がり,明治・大正・昭和と一貫して学齢前の子ども服の主流を占めた。第1次世界大戦直後に和服の非活動性が論議されはじめ,1919年にはセーラー服など洋服の女生徒通学着を発売する既製服店もあらわれ,運動服に採用する女学校もあった。…

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