日本歴史地名大系 「魚ノ町」の解説 魚ノ町うおのまち 福岡県:福岡市博多区博多・博多津魚ノ町流魚ノ町[現在地名]博多区上呉服町(かみごふくまち)店屋(てんや)町の通りに面する両側町で、魚町とも記す。魚ノ町上・魚ノ町中・魚ノ町下の三町で構成され、小山町下(おやままちしも)・呉服町上の通りを境に西は店屋町、蓮池(はすいけ)町の通りを境に東は中小路(なかしようじ)町に続く(福岡博多近隣古図)。古くは魚ノ町上ノ上・魚ノ町上ノ下・魚ノ町中ノ上・魚ノ町中ノ下の四町で構成されていたが、のちに上・中・下の三町となった(続風土記・続風土記附録・続風土記拾遺・石城志)。天文一二年(一五四三)の安山借屋牒(聖福寺文書)によると、聖福(しようふく)寺境域の寺内町として「魚之町」がみえ、借屋四五軒、間数は東から北へ六三間五尺で、常住納地料一三貫八九九文(うち二四〇文調菜居屋敷)、大山口夫四貫八〇文・小山口夫五貫七四八文を納めていた。慶長一五年(一六一〇)の御祓賦日記(神宮文庫蔵)に「うをまち」が記され、小林氏らの名がみえる。元禄三年(一六九〇)の家数は魚町の上ノ上が二一、同上ノ下が一八、同中ノ上が二八、同中ノ下が二七(続風土記)。明和三年(一七六六)には魚町上は家数三八・間数八八間余、魚町中は家数二七・間数六八間余、魚町下は家数二五・間数五〇間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数は上二三・中三一・下二七(博多店運上帳)。産神は上が筥崎八幡宮、中・下は櫛田(くしだ)宮(続風土記拾遺)。 魚ノ町うおのまち 福岡県:福岡市中央区福岡城下魚ノ町[現在地名]中央区大手門(おおてもん)二丁目・赤坂(あかさか)一丁目・舞鶴(まいづる)三丁目西の大工(だいく)町と東の本(ほん)町の間にある南北に延びる横町で、町名は魚店があったことにちなむ(続風土記)。元禄三年(一六九〇)の家数三六(同書)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数三六(別本「続風土記附録」)。福岡博多近隣古図に町名はみえない。享保一九年(一七三四)一一月、従来町奉行が行っていた諸運上銀の取立てを年行司に引継いだ際、福岡の魚ノ町・万(よろず)町、博多の古渓(こけい)町・鰯(いわし)町については当該町の問屋が任にあたった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by