横町(読み)よこまち

精選版 日本国語大辞典 「横町」の意味・読み・例文・類語

よこ‐まち【横町】

〘名〙 横手にある町。表通りから横へはいった町筋。よこちょう。〔日葡辞書(1603‐04)〕

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デジタル大辞泉 「横町」の意味・読み・例文・類語

よこ‐まち【横町】

よこちょう」に同じ。
「―という―には」〈鴎外訳・即興詩人

よこ‐ちょう〔‐チヤウ〕【横町/横丁】

表通りから横へ入った町筋。また、その通り。よこまち。

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日本歴史地名大系 「横町」の解説

横町
よこまち

[現在地名]上越市ほん町二丁目

府古ふご町の北に続く本町ほんまち(北国街道)の両側町。町の長さおよそ八二間余(高田市史)。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)に「横町と申名之由緒不存候」とある。旅籠屋と茶商売をおもな生業とした。天和期(一六八一―八四)の調では役を負担する町で屋敷数二一、名主がいた(頸城郡誌稿)。高田町各町記録によると井戸数三六、旅籠屋二一軒、紺屋四人・畳屋一人・仕立屋一人。寛保二年(一七四二)の調では家数三〇、府古町名主の支配(頸城郡誌稿)。茶商売は呉服ごふく町と当町に許可されていた(→呉服町。旅籠屋営業は当町と呉服町・下小しもご町に許されていたもので、「頸城郡誌稿」に「此三町ニ限リ旅籠屋稼仕来、凡軒数ニ定モ有之、仍願届無之勝手ニ稼不為致候。但、宝暦三年改下小町弐拾五軒、呉服町七軒、横町弐拾弐軒ナリ」とある。

高田城下には遊女がいなかったが私娼はいたらしく、稲葉氏時代にこれを追放し、当町の旅籠屋に留女を二人ずつ置くことを許した。

横町
よこまち

[現在地名]龍野市龍野町大手たつのちようおおて

たて町の北に位置し、南に延びる立町筋に直交する東西道に面する町筋で、東はうら(半田用水)を境に上川原かみかわら町。枝町として大手の西にうお町、南の桶屋おけや町に通ずる町筋に瓢箪ひようたん町がある。魚町の西の武家屋敷との境の魚町口には東面して木戸が設けられており、木戸の西の広場には南面して魚町門(大手裏門)と番所があった(寛政一〇年龍野惣絵図)。寛文一二年(一六七二)には面積一町一反余、地子高一五石余・取米一一石余、家数七〇・寺三、年寄は千本屋太郎右衛門(龍野市史)

横町
よこまち

[現在地名]福井市西木田にしきだ三丁目

石阪いしざか町から西へ入った町で、足羽あすわ山の東南麓にある。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳は「横町 六拾九間、往還ヨリ山奥町迄、但道幅二間一尺」と記す。天保一〇年(一八三九)頃の木田町組水帳(竹内家文書)には家数四七(うち裏屋分ただし北側一二)とある。

町の北裏側足羽山麓に桜井さくらいという井戸があった。「足羽社記略」は継体天皇の皇子椀木皇子すなわち桜井王がこの地に住したため井の名が生じたか、とする。

横町
よこちよう

[現在地名]高岡市本町ほんまち横町よこまち

小馬出こんまだし町の北に続き南北に延びる両側町。北は平米ひらまい町に続き、南端を東に折れると坂下さかした町。伏木ふしき村や氷見ひみ町に至る往来に沿う。当町から坂下町の背後を通るあわら道に木戸があった(「不歩記」・「高岡度々御検地ノ事」高岡市立中央図書館蔵)。本町で、時割は三時八歩八厘(不歩記)。明治六年(一八七三)の役地二千三一〇坪九合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数三四(家数書上帳)。文政四年(一八二一)の大火では馬借持二軒を含め全町三九軒を焼失(高岡史料)。明治五年の家数四四(同書)。文政一二年増山屋甚左衛門と井波屋太助が町頭勤続を賞して表彰された(高岡市史)

横町
よこまち

[現在地名]糸魚川市横町一―五丁目・一の宮いちのみや四丁目・清崎きよさき寺島てらじま一―二丁目・新鉄しんてつ一―二丁目・上刈うえかり一丁目・横町

北陸道に沿い、東端の四つ角から南へ信州街道が分岐する。西はひめ川岸の寺島村に続く。半農半漁で生計を立てていたと思われる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に横町として高三五二石九斗余とあり、「此所 酒や四軒 米 弐百八拾壱石 巳年酒ニ造ル分 米 百四拾石 午年同理」と記される。天和三年郷帳では横町村として高五三三石七斗余とある。

横町
よこまち

[現在地名]山形市本町ほんちよう一―二丁目・十日町とおかまち二丁目

七日なぬか町の南に延びる羽州街道の両側町。南は同街道で十日町に続き、東は北から檜物ひもの町・おけ町・塗師ぬりし町、西は三の丸の堀で、横町口がある。かつては三の丸内の城南の地に位置し、同地の東西に長い十日町と直角の横の町であったので横町と称するようになったという。最上義光の山形城拡張の折に十日町とともに現在地に移住し町立てされたと伝える。最上氏時代城下絵図に「今ヨコ町」とみえる。

元禄一〇年(一六九七)の屋敷家数等覚(山形故実録)によれば、本通りの町の長さ二町四五間・幅四間三尺、板橋・石橋・土橋各一。

横町
よこまち

[現在地名]岡崎市本町ほんまち通・康生こうせい

岡崎城外郭内に連尺れんじやく町と交差し南北に通ずる町。南は城内木戸横町口を限り、北は信濃しなの見付門を限る。町の中ほどより南斜めに連尺町西角へ出る小路をかや町と称し、その一角を三軒屋敷さんげんやしきとよんだ。町の長さ一七七間一尺六寸、うち四五間六寸連尺町分、幅二間五尺、茅町は長さ二六間一尺五寸、うち連尺町分五間五尺七寸、幅二間。岡崎宿伝馬役地と年貢地が入交じり、人馬役を勤める家が連尺町南の西側に五軒、東側に二軒、北の東側に一〇軒、西側に一五軒、それより北が年貢地であった。

横町
よこまち

[現在地名]水沢市 横町

町人町水沢六町の一。ふくろ町西端から北進する奥州街道の両側町で、北はおお町に続く。水沢宿の機能を分担する一町で、寛永三年(一六二六)の塩移送についての記録(石母田文書)に「横町けんたん弥衛門」の名があるから、早くから検断が置かれ宿継などの業務に従っていたものとみられる。同一八年の塩竈村検地帳(県立図書館蔵)では屋敷数五五、うち耕地をもつ者は一六。六町のうちで袋町に次いで百姓が多く、一町以上三人・五反以上一〇人、それ以下三人。

横町
よこまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう二丁目

海野うんの町の発展に伴い、旅人宿・商家・職人などが増加し、海野町から南に折れた北国脇往還沿いや、蛭沢ひるさわ川の北側につくられていた鍛冶かじ町と結ぶように、南から北へと次第に町造りがなされた。海野町の横にできたので横町という。町の長さ二町五〇間(長野県町村誌)

寛文三年(一六六三)家数六五、人数三五三人(原文書)、宝永七年(一七一〇)戸数四七、人数四八二人(柳沢文書)。町の様子を「百合さゞめごと」は、「寛政の中頃下横町あたりの家には、概ねねだ(根太)は無かりしなり」と伝え、当時の家造りが粗末であったことがわかる。文化元年(一八〇四)の太物仲間は九軒(島田文書)

横町
よこちよう

[現在地名]八幡町大手町おおてまち

ほん町と北側の鍛冶屋かじや町の境から東の殿との町の通りまで東西に走る通りの両側町。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図に大手ヨコ丁とみえる。通りを東へ進むと八幡城の大手門に至り、西へ進むと吉田よしだ川左岸に「キコク舛形」があり、そこから対岸の中坪なかつぼ尾崎おさきへ二本の橋が架けられていた。寛文四年の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)に新中間として横町次郎兵衛がみえる。元禄五年(一六九二)には家数三五・反別三反一畝八歩、内訳は豆腐屋七・茶屋三・鍋屋一・瀬戸物屋一・肴屋一・味噌屋一・ふじや一・郷通商人二・医師一・聖一・大工三・耕作人三。

横町
よこまち

[現在地名]宮古市横町・沢田さわだ

もと町の北端から、西のはずれは石崎いしざきの神明社に至る間の閉伊へい街道沿いの町。元禄五年(一六九二)の町屋鋪表口改帳(伊香文書)によると道幅二間四尺、町の長さ一四一間余(ただし一間は六尺五寸)、家数四〇。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では黒田くろた村に属し、家数六四。麹屋・紺屋を業とする者が多く、ほかに旅人宿の名もみられる(前掲改帳)。北方に続いた山をうえの山といい、山麓台地には高橋家・中島家・刈屋家・御役医など、宮古通給人・代官所役人などの邸宅が点在し、またほぼ中央の山中には修験善龍院の奉仕した深山しんざん神社が現在もある。閉伊街道の出入口にあたる町で、本町の突当り町角には高札場があった。

横町
よこちよう

[現在地名]八王子市大横町おおよこちよう

八日市ようかいち八幡はちまん両宿の間に位置する。八王子横山十五はちおうじよこやまじゆうご宿のうちで、横山・八日市両宿の加宿。町内に北条氏とのゆかりを伝える出世稲荷社をはじめ、嘉元二年(一三〇四)起立の宝樹ほうじゆ(時宗)、大永元年(一五二一)に開山した福全ふくぜん(現臨済宗南禅寺派)などがあった(風土記稿)。町名は大横町ともいい(「横山根元記」、文政四年「玉川渡船場一件書上」渡辺家文書)、また大善寺横だいぜんじよこ町ともいう(風土記稿)。元禄一五年(一七〇二)の八王子横山宿村鑑(新野家文書)によれば、高五四石余、家数八五のうち本百姓五〇・水呑三五、人数三〇一、馬三、諸色商売人(焼餅商・饅頭商・心太商・豆腐商・草履商・草鞋商など)三五、大工五・畳指二・千人同心一五・農間渡世二八。

横町
よこまち

[現在地名]松前郡松前町字福山ふくやま

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。なか町の北側に位置し、北側の中川原なかかわら町と西側の川原かわら町、東側のふくろ町・くら町に挟まれた地域にあたる。享保二年(一七一七)の「松前蝦夷記」に横町とある。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると東西七四間。同六年の中川原町を含む家数九四・人数二九七(「村鑑下組帳」松前町蔵)。寛政一〇年(一七九八)には新七が名主であった(家中及扶持人列席調)

横町
よこまち

[現在地名]丸亀市本町ほんまち

城の北側に位置する東西の通りに沿う細長い町で、「西讃府志」に「西塩屋門ヨリ入リ東通町ニ至ル、町長三町十八間」とある。北ははま町、東はとおり町、南は東から富屋とみや町・塩飽しわく町・下南条しもなんじよう町、西は城下の西端で、塩屋しおや門を経て那珂なか郡塩屋村。万治年間(一六五八―六一)の城下図では大部分が古町と記され、生駒氏時代に成立した町と考えられる。元禄一〇年(一六九七)の城下図には町の東端の入海にきよう橋がみえ、通町と結ばれている。

横町
よこちよう

[現在地名]栃尾市おもて

栃尾城下の根小屋町に連なる商業町で七日なのか町の横に続く。西谷にしだに川の左岸にあり、対岸の向谷地むかいやちに対して山方谷地やまがたやちとも称した。南の川上に神明しんめい町・岩崎いわさき町が続く。西谷道山手側には二軒の御旅屋おたや(代官屋敷)が続いていた。延宝三年(一六七五)の屋敷改検地帳(富川家文書)では表間口四八間余で地子米は三斗余。文化六年(一八〇九)の万掛改書法書(同文書)では三一間余で地子米は銀納となり一二〇文。元文年間(一七三六―四一)の西谷川の度々の氾濫により水難損地分が歩高と称して宅地として追加されたので、表間口割のほかに川前屋敷も宅地割が行われて新しい町並となる。

横町
よこまち

[現在地名]高砂市高砂町横町

高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)には小間物こまもの町とみえ、江戸時代中期までに横町に改称されたと思われる。ほん町筋(北本町・南本町)の竪町に対応し、東は今津いまづ町から西は西堀にしほり川へ東西に連なる横の町並。安永二年(一七七三)の棟数四二・竈数八三・店借五八、人数二九四、うち田地持一(「高砂町方明細帳写」船津家文書)。天保九年(一八三八)の家数五二・人数二〇五、年寄笠屋善兵衛のほか組頭が四人いた(「宗門人別帳」高砂市蔵)

横町
よこまち

[現在地名]厳原町今屋敷いまやしき

府中ふちゆう商人町二四ヵ町の一つで、今屋敷の南の横道にあたる。南の金石かねいし川沿いに魚肆うおのたなという通りがある。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「横町」とあり、南側の屋敷一六軒。同九年の年行司町人返答書(同文書)に町名がみえ、乙名は梯七郎右衛門で、本家二〇・借家一四、人数九七、糀屋・酒屋があった。文化一〇年(一八一三)三月、伊能忠敬の一行は勝本かつもと(現勝本町)から府中に到着、府中横町の塩津・八木・竜井など府中六十人組の諸氏宅に止宿した(伊能忠敬測量日記)

横町
よこまち

[現在地名]中区大手おおて町一丁目

猿楽さるがく町の一本南の、山陽道に面する両側町で、町の中央を縦に通る白神しらかみ一―二丁目によって東横ひがしよこ町と西横町に分けられる。白神組に属した。元和五年広島城下絵図に横町として町間数二町五〇間とあり、寛永二年広島町数家数改め(済美録)では「西よこ町」として本家一九軒・借家一一軒が記される。承応の切絵図には「白神横町」として家数一九、間数七三間四尺五寸とあり、うち小間物屋二軒、紙屋・雪駄屋・古鉄屋・銭屋・油屋各一軒があった。この頃は西横町という町名はなく、単に横町と称している。

横町
よこまち

[現在地名]新宮市大橋おおはし通一―三丁目

城下のほぼ中央を南北に通る横町通(現国道四二号)を挟む両側町。横町通は近世の熊野街道大辺路にあたる。「新宮領分見聞記」には「川原上り立の門より竜鼓橋迄」とある。北から上中下の三町に分れる。南は堀端ほりばた通を境にうま町。町名はほん町筋に対し横通りの町であることによるという。江戸時代初期頃の新宮古図(新宮木材協同組合蔵)には町名はみえないが、通りの両側は町家で占められている。町の南端、堀端通に沿ってほぼ東西に流れる小川に架かる橋を「リウコハシ」と記す。

横町
よこまち

[現在地名]佐倉市新町しんまち

海隣寺門前かいりんじもんぜんの南東方に位置。成田道に沿って南北に延びる両側町で、東に折れると新町に続き、北は城外侍屋敷地の舟見ふなみ町・海隣寺並木かいりんじなみき。松平乗邑時代の佐倉城絵図(篠丸家蔵)に町名がみえ、高札場が設けられていた。「古今佐倉真佐子」に「新町入口横町札ノ辻より東の方肴町入口迄凡七丁斗、長き町にて左右町や也」とあり、堀田正愛時代の佐倉城絵図(佐倉市史付図)にもふだつじとある。

横町
よこまち

[現在地名]石狩市横町

明治四年(一八七一)から同三五年までの町。石狩郡のうち近世末期に形成された石狩市街の一町で、親船おやふね町と弁天べんてん町に挟まれた南北に長い町。「石狩国地誌提要」に「川西」として「横町」がみえる。町の北部は隣接の弁天町・しん町とともに貸座敷・芝居小屋・飲食店街で賑わった。中央部には曹源そうげん(同九年類焼)があり、西部は漁業関係者の住宅・納屋が続き、西端には明治一一年建築の石狩小学校があった(石狩町沿革史)

横町
よこまち

[現在地名]角館町横町

外町に属し、東西に延びる火除けの南に沿う町。南からのなか町の通りは横町を二分して火除けに突き当り、ここに内町と外町を分ける門がある。その東は上新かみしん町通り、西は七日なのか町通りとなる。火除けは幅約二一メートル、東西二八八メートルの空地で、三メートルの土塁があった。

家数は宝永二年(一七〇五)四七戸、享保二〇年(一七三五)七〇戸であった(角館誌)。横町の西端は檜木内ひのきない川から取水したうち川で、この川端に米蔵があった(享保年間「角館町町割図」角館町立図書館蔵)

横町
よこまち

[現在地名]館林市本町ほんちよう一丁目・仲町なかまち

日光脇往還の西裏通りで、北は塚場つかば町、南は竪町たつまち通を越えて谷越やごえ町に至る通りの両側の地域。竪町通以北を塚場横つかばよこ町、以南を新横しんよこ町と称したという。また明治七年(一八七四)の地券改以後新横町を竪町に編入し、塚場横町を石町こくちようと改めたという。石町は穀町の意味で米穀商より起こった名称とされる。延宝二年(一六七四)の城下町図には「塚場横町」とみえる。

横町
よこまち

[現在地名]諫早市本町ほんまち

諫早市中の西部に位置する。肥前佐賀藩親類同格の諫早家の屋敷の東にあたり、大手口より北に通じる町並を形成する。しも町別当の管轄下にあり、天保一〇年(一八三九)以前の諫早旧城下図(「諫早市史」所載)ではたか城跡の東に御屋敷・会所・天祐寺てんゆうじ小路・ほん小路・泉野いずみの・裏小路・番所などが記され、さらに東に町がある。

横町
よこまち

[現在地名]西尾市さいわい

追羽おつぱ門から大手おおて門に至るなか町に直交する町。横町岩崎氏の系譜に「田中兵部大輔様西尾御取被遊候節、横町と号す街割出来致し、横町に三ケ所屋敷を取り、是にて其子兄弟三人居住す」とあり、「鶴城記」には、天正一八年(一五九〇)田中吉政が三の丸を増築し、民家数十軒をほん町・中町・横町・さかな町に移すと記してあるところから、横町の開けたのは天正一八年頃と思われる。

横町
よこまち

[現在地名]臼杵市臼杵 横町

はま町の南に位置し、西はかけ町。長さ一町二三間と五六間の通りに両側町を形成するが、八町のうちでは最も規模が小さい。参宮帳写(後藤作四郎文書)によると、天正一八年(一五九〇)三月一七日「よこ町」の竹内雅楽助ら臼杵衆六人が伊勢神宮を参詣している。文禄二年(一五九三)の臼杵庄惣町屋鋪検地帳写(渡辺家文書)には横町とみえ、高六石余、屋敷地が一八筆あり、名請人は一七人。

横町
よこまち

[現在地名]岩槻市本町ほんちよう二丁目・同四丁目

市宿いちじゆく町としん町の東端を結び、南に延びる日光御成道下道の両側に発達した町で、町端の林道りんどう杉並との境に惣構の横町口がある。北側は武家地(大岡氏時代の岩槻城惣絵図)。宝永六年(一七〇九)の岩槻各町宗門人別惣高(勝田家文書)によると男一八五・女一六九。延享三年(一七四六)の岩槻惣町万覚帳(高橋家文書)によると町の長さ二町一二間、竈数本百姓三三・借家一一・出家四三、名主一・組頭二、馬二。

横町
よこまち

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

出河原でがわら町から北の花岳かがく寺門前までの南北二町八間の町筋(宝永元年加里屋町絵図)。赤穂藩主の浅野家・森家の菩提寺である花岳寺への参詣道であったので、お成り道ともいう(赤穂市史)。同寺門前から西へ備前街道が始まる。当町には有力町人が住み、三〇軒のうち間口一〇間以上が四、借家は八(加里屋町絵図)。元和七年(一六二一)の大火で町家は全焼したが、柏屋と泉屋の二軒だけが残った(「赤穂由来記」吉栖家蔵、「赤穂郡志」)

横町
よこまち

[現在地名]秋田市おお町五丁目の一部

ほん町五丁目小路・下肴しもさかな町の東の町並。五丁目横ごちようめよこ町と称した。町割は下肴町と同様、元和年間(一六一五―二四)と思われる。家督商売はみられないが、文化年間(一八〇四―一八)の「久保田惣町家数軒数御町寺々湊町惣町家数神社仏閣小間等之覚手控」(県立秋田図書館蔵)に、本町五丁目とともに上の町とあるから、富裕な町であった。

横町
よこまち

[現在地名]富山市千石町せんごくまち二―六丁目

壱番いちばん町と弐番にばん町の境界付近から南に延び、覚中かくちゆう町と直交して山王さんのう町に至る。田地方のうち。安永八年(一七七九)の本家数一四・貸家数二〇(「町方旧記抜書」前田家文書)。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によれば竈数二六、男四六・女六二。

横町
よこまち

[現在地名]日野町村井むらい 村井横町

しん町中央付近から南に鍛冶かじ(長島町)へ向かって抜ける道筋にある。城下町割ではみなみ町と南新みなみしん町の境から南北方向に延びる若草わかくさ町に相当すると思われる。寛永四年(一六二七)日野三町が伊予松山藩領となると当町に同藩の御馬屋敷が設けられた(池内記録)

横町
よこまち

[現在地名]津和野町後田うしろだ

ほんかみノ町・同中ノ町と交差する東西道(今市通から続く道)に沿う両側町の町人町。万町よろずまち通で上ノ町・下ノ町に分れる。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では上ノ町は南側のみ七軒があり、そのうち侍の小野家の貸屋二、商人貸屋二・医師一。

横町
よこまち

[現在地名]金沢市野町のまち一丁目

犀川左岸の野町通に出る小路の両側町。野町一丁目の東にあり、東は蛤坂はまぐりざか町。町名は、かつて玉泉ぎよくせん寺が今の成学じようがく(現浄土宗)の地にあった頃の寺の横町であったことによる(金沢古蹟志)。玉泉寺の門前地として成立したが、元禄一三年(一七〇〇)一二月の町奉行書簡(改作所旧記)に「殊之外狭く」とあるように、はなはだ狭い道路で往来に難儀したという。

横町
よこちよう

[現在地名]滑川市横町

南北に走る北陸街道を中心とした町で、北は富山湾に臨む。寛永六年(一六二九)瀬羽せわ町が海岸浸食のため山方へ移転したのち、その西横にできた町であったのが町名の由来と伝える(滑川町誌)。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)に横町とみえ、瀬羽町を東から西に貫通した北陸街道は当町南部に突き当って北に折れ、北端でさらに西へ曲がって山王さんのう町に続く。

横町
よこまち

[現在地名]柳川市稲荷町いなりまち

きた町通から北へ延びる二本の通りを中心とした町。年不詳の柳川城下絵図・沖端北部(九州大学附属図書館六本松分館蔵檜垣文庫)には、東に「東横町通り」、西に「西横町通り」と記載され、それぞれ両側町を形成していた。また同絵図に張られている付箋から、土地・住民ともに町方支配であったことがわかる。寛政二年(一七九〇)の沖端町絵図にはそれぞれの通りに「町」とのみ記されている。

横町
よこまち

[現在地名]土浦市城北じようほく町・立田たつた

土浦城の北東に位置し、北は真鍋まなべ村に接する。水戸街道の城下開通に伴い、慶長九年(一六〇四)頃整備された町屋。城主松平信吉によって、城下の防備を固めるため、真鍋村寄りに北門が設けられていた。元文年間(一七三六―四一)の東崎町分戸別図(土浦市立図書館蔵)には、水戸寄りに進んで右折するまでを五二間半、右折してから北門までが一八間と記され、北門には真鍋口御門・番所が記される。

横町
よこまち

[現在地名]大野市明倫めいりん町・日吉ひよし

大野城の南東、町地の南端に位置し、東西に走る横町通に面する。西部をとくに大鋸おが町、東部を東新ひがししん町とよぶ。五番ごばん通から東は美濃街道で、稲妻形に道が折れる所を中心に商家が連なる。

横町
よこまち

[現在地名]日野町松尾まつお

上松尾町の西、日野松尾町の中央を南北に抜ける道筋に位置する。城下町割ではほん町通の石原いしはら(上松尾町)と松尾町との境を南北に走る小路にみえる二丁・三丁に相当すると思われ、正徳五年(一七一五)の三町絵図には通りに西面する蔵屋敷が描かれる。

横町
よこちよう

[現在地名]長浜市元浜町もとはまちよう

南北通りに沿った両側町で、南の東西通りは東本ひがしほん町・西本町、北は大手おおて町に続く。朱印地。慶安四年(一六五一)の検地帳(川崎文書)によれば屋敷地二三があげられ、うち明屋敷二。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数二二(借家三・貸家一)、男四二・女三九で、町代・横目が置かれ、眼医者・医師・京飛脚・肴屋・塗師屋・梯子屋・杓子屋・備前屋がいた。

横町
よこまち

[現在地名]七戸町 七戸

通称横町の一部。七戸村の町方東側に位置し、奥州街道沿いにほぼ南北に延びる。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると北はしん町、南はした町に接し、西にほん町・うら町が延びる。

横町
よこまち

[現在地名]上里町三町みまち

安保あぼ町の西に位置し、南は大御堂おおみどう村。正保国絵図・田園簿に村名はみえないが、元禄年中改定図(風土記稿)に記される。同書は横町村と記し、大御堂村からの分村と推測しており、「郡村誌」はその時期を承応四年(一六五五)とする。

横町
よこまち

[現在地名]黒石市横町

黒石陣屋の北にあたり、かん町の東に続く商家街。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)では、家数は一六軒であるが、万延元年(一八六〇)の「津軽道中譚」では、「前町横町通りを見廻るに、実にも繁昌の土地にして、商店には(中略)五玉のおと三市に響き、工匠家を連ねて(中略)槌音六街にきこゆ」という賑いぶりである。

横町
よこちよう

[現在地名]新庄市本町ほんまち万場町ばんばちよう大手町おおてまち

南の北本きたほん町から直角に西に曲り、再び北折して万場町に続く。城下の構造が南北に長いため、東西の通りが少ないためにつけられた。西の突当りに修験南学なんがく院がある。北本町等諸町絵図(中島家蔵)によれば、北側一三軒、南側七軒の屋敷があるだけの短い町である。

横町
よこまち

[現在地名]鹿角市花輪 横町袋丁

花輪はなわの町並の中央部に位置する武家町。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「四軒横町」とある。文政四年(一八二一)の南部盛岡藩領内絵図には「横丁」とみえる。

横町
よこまち

[現在地名]西条市本町ほんまち

寛永開町当時から続いた町。近江屋猪右衛門の先祖留右衛門が大町おおまち村から移って開いた。陣屋町の中央にあり、大師だいし町と本町の南端をつないで東西に延び、ひがし町に続く長さ半町足らずの町。

横町
よこまち

[現在地名]横手市もと町・蛇の崎じやのさき

蛇ノ崎橋を経て通称下内しもうち(広義の本町)に入る羽州街道から最初に北へ分れる道路沿いの町で、西は本町、東は堀と土塁を隔てて下根岸町。享保一三年(一七二八)横手城下絵図(秋田県庁蔵)に町名はなく、小路の長さ九五間が記され、小路と堀との間に城代戸村十太夫家来の屋敷割がみえ、明治一四年(一八八一)の「郡区町村一覧」に横町とある。

横町
よこまち

[現在地名]松任市横町

安田やすた町東端から北へ延びる通りの両側町。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に町名がみえ、両側に百姓家の屋並が描かれている。町のほぼ中央から東へ新町しんまち通が延びる。

横町
よこまち

[現在地名]福江市福江町

福江城の北に位置する。搦手門や横町口蹴出門があり、本町ほんまち通をたて町とも称していたので、これに直交する街路の意であろう。寛永一一年(一六三四)の福江直りに伴って町割が行われた武家屋敷町の一つで、同年の屋敷数五(五島編年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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