鰍沢村
かじかざわむら
[現在地名]鰍沢町 新田町・畔沢町・梅林町・旭町・富士見町・上北町・上南町・緑町・八幡町・中町・本町北・本町南・入東町・入西町・横町・白子町・明神町・栄町・小柳川町・日向町・久保沢町・天戸町・国見平町・鬼島町・梅久保町・北新町
甲府盆地の南端、富士川右岸に位置し、戸川・南川の両川が南北から村を挟み、三面を川に囲まれた窪地にある。北は青柳村・最勝寺村(現増穂町)、東は富士川を越えると黒沢村(現市川大門町)、南は口留番所を経て箱原村、西は山を境に高下村(現増穂町)。枝郷に天戸・国見平・鬼島・梅久保・角久保・白沢・新居林があった。当地の光長寺(のちの蓮華寺)宛に出された天文一六年(一五四七)四月吉日の武田晴信印判状(蓮華寺文書)に同寺所在地として地名がみえ、寺家一間分の棟別を除いたその他の諸役を免除されている。光長寺は大井庄司入道橘六の館の跡地に創建されたといわれ、大井庄の中心地にあった。永禄三年(一五六〇)二月二九日には鰍沢の孫右衛門らに対して棟別役の普請を免除(「武田信玄印判状写」・「跡部長与証文写」甲州古文書)、同九年には鰍沢の善七郎に対して棟別役の一間分が免除されている(一〇月二一日「武田信玄印判状写」同古文書)。久遠寺は天正一七年(一五八九)一月九日に徳川家康から「身延山会式之関」を免除されているが(「徳川家康印判状写」久遠寺文書)、これは御会式に参詣する男女の関銭を免除したもので、その対象は鰍沢と黒沢(現市川大門町)の役所(関)であった(寅一〇月一日「徳川家奉行連署証文写」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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