日本大百科全書(ニッポニカ) 「穴山信君」の意味・わかりやすい解説
穴山信君
あなやまのぶきみ
(1541―1582)
戦国時代の武将。甲斐武田(かいたけだ)氏の親族衆。父は信友(のぶとも)、母は武田信玄(しんげん)の姉(南松院(なんしょういん))である。初名は勝千代(かつちよ)、彦六(ひころく)。左衛門大夫(さえもんだゆう)、玄蕃允(げんばのすけ)、陸奥守(むつのかみ)に任じ、1580年(天正8)以後は、出家して梅雪斎(ばいせつさい)、不白(ふはく)と号した。穴山氏は武田一族で、歴代、巨摩郡南部(こまぐんなんぶ)(山梨県南巨摩郡南部町)、下山(しもやま)(同身延(みのぶ)町)の領主であった。永禄(えいろく)元年(1558)ごろ、信玄の娘(賢性院(けんしょういん))を妻に迎え、武田家の重臣となる。初め下山館で巨摩郡河内領(かわうちりょう)(南巨摩郡)を支配した。1575年(天正3)武田勢力の南下により駿河(するが)江尻(えじり)城主となり江尻領(現在の静岡市清水区にあたる地域)を支配した。1582年3月の武田氏滅亡の際は、徳川家康に内通した。同年6月、家康に従って上京のおり、本能寺(ほんのうじ)の変にあい、その帰途、宇治田原で、一揆(いっき)のため殺された。
[柴辻俊六]