日本歴史地名大系 「大井庄」の解説
大井庄
おおいのしよう
- 岐阜県:大垣市
- 大井庄
古代から中世まで存続した奈良東大寺領庄園。旧
〔成立過程〕
〔庄園整理令と大井庄の確立〕
大井庄が古代的な庄園から中世に生続ける庄園として確立するのは、一一世紀後半から一二世紀のことである。中央政府の庄園整理政策、それをうけた国司による庄園収公の圧力と、それに対抗する東大寺との争いを経ることによって、中世的な庄園として確立する。国司による大井庄収公の動きは、長暦年間(一〇三七―四〇)に国司大江定経によって大井庄が収公され、造内裏役・防鴨河役および臨時雑役が賦課されたことが早い例である(長久元年一二月二八日官宣旨案)。その後、国司源頼国も庄田一〇余町を収公、御馬逓送・相撲使供給などの臨時雑役を大井庄の住民に賦課し、次の国司高階業敏も三〇町余の見作田を収公し、かつ造内裏役などの課役を賦課している(天喜二年二月二三日官宣旨案)。以上の国司側の動きは、長久元年(一〇四〇)の庄園整理令などと連動しており、造内裏役などの造営役を一国平均役として臨時雑役が免除されていた庄園にも一率に賦課するという朝廷の政策変更を背景にしていたと考えられる。東大寺はこの国司の動きを朝廷に上訴し、その都度、免除の特例を認められた。造内裏役免除の対象となった田地は官物が免除される本免田のみで、庄園の四至内に存在する公田は除外されていなかったが、本免田数についての見解は国司側と東大寺側とでは異なっていたため(東大寺側が国司側より大きい数字を示す)、免除の田数をめぐっての争いが続くことになった。
大井庄
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- 山梨県:中巨摩郡
- 大井庄
甲府盆地の西部、古代の
大井庄
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- 長野県:北佐久郡
- 大井庄
「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の「関東知行国々内乃貢未済庄々」の中に「八条院御領大井庄」とみえるのが初見。「和名抄」の「信濃国」中にある佐久郡「大井」との境域的なかかわりは明らかでないが、当初の大井庄はこの「大井」の中心地とされている
弘安二年(一二七九)
大井庄
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大井庄
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報